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  著者  :fim-Delta

 作成日 :2008/09/03

第一完成日:2008/09/06

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「それで、アルカンさん、これで息子をリーラ市役所の公務員に採用してくれるんですね?」

「ああそうだ。私のコネさえあれば容易いことさ。それと一つ注意だが、このことはくれぐれも内密に頼むぞ――お互いのためにな」

「はい、ありがとうございます!」

「それではもう行っていいぞ」

 雌の真海豚(=まいるか)が部屋を立ち去ったのを見て、雄鯱のアルカンは安楽椅子の背凭(=せもた)れにグッと体重を掛けた。そして受け取った札束の一部をパラパラ(=めく)ると、彼はゆっくりとほくそ笑んだ。このボーナスさえあれば長いこと贅沢な暮らしが出来るぞと、彼はこれから訪れるであろう一人天下な生活に心を躍らせ、その時にはこの貧相な体も少しはまともになるかもな、と心中で静かに笑った。

 それから少しして、恍惚感に浸っているアルカンの部屋の扉が突如ノックされた。現実に引き戻された彼は、慌てて札束を詰めたアタッシュケースを抽斗(=ひきだし)にしまい込むと、椅子に座り直して体勢を整えた。

「課長、中に入ってもいいでしょうか?」

「あ、ああ、入っていいぞ」

 扉が開き、そこから一人の雌海豚が入って来た。

「リタか、何か用か?」

「またあのラットが取材を申し込んで来てますが」

「あいつか……全く、性懲りも無く頑張るよなあの(=)も。彼女には(=ほとほと)うんざりさせられる」

「同感です。それで、取材の方はどうしますか?」

「勿論断っておけ。それで、用件はそれだけか?」

「いえ、あとこの資料を」

 そう言ってリタが差し出したのは、過誤納金のリストとその総計だった。それを一覧したアルカンは、微笑みながらこう呟いた。

「ふん、これだけ優秀な成果を収めている税務課に、一体何の問題があるっていうんだ」

 

 一日の業務を終えたアルカンは、身支度を済ませて肩掛け鞄を掛けると、アタッシュケースを(=)げて課長室から出た。今日は(=)えて部下達がいなくなるのを見計らっており、税務課室はひっそりしていた。それもこれもアタッシュケースに入っているボーナス(=・・・・)のためであり、彼は辺りを見回して人がいないのを確認すると、リーラ市役所から静かに出て行った。

 市役所の玄関口にある小階段を降り、帰路に着こうとしていた矢先、フラッシュが矢庭に焚かれて彼は思わず腕を振り上げた。

「だ、誰だ!?」

「アルカンさん、是非取材を!」

 腕を下ろしたアルカンの目に、ICレコーダーを差し向ける一人の雌鮫が映り込んだ。

「……なんだラットか」

「名前を覚えて貰えて光栄です」

「ラット、相変わらず君は私を嗅ぎ回っているらしいな」

「それはあなたには、何か裏がありそうですから」

「ありそう、じゃ困るんだよ。確りとした証拠を持って来て貰わないと」

「無い証拠を探るのも、私達記者の仕事なんです」

「だからと言ってな、君、潔白な私の空言(=そらごと)を言うのはやめて貰えないか? 私だけじゃなく税務課にも、それどころかこのリーラ市役所全体にも影響が出るんだよ」

「でもですね、他にもアルカンさんには裏組織<ビート>との交流関係が噂されています。それだけでも充分あなたを追う理由にはなってると思うんですが」

「単なる噂に過ぎん。誰かが私を(=おとしい)れようとしているんだろ」

「それでは何故先週の休日、あなたは<ビート>が潜むリーラの裏通りに入ったんですか?」

「あそこは自宅への近道に良く使っている。大したことじゃない」

「でもその通りは、度々<ビート>の襲撃に遭う危険な場所なんですよ?」

「そんなこと私の知ったことではない」

「命の危険に晒されるかも知れないのにですか?」

「ふん、奴等は相手をちゃんと見ているんだろ。私は一度も襲われたことはない」

「でもそれは、あなたが彼らと関わりを持っているからで――」

「黙れ! これ以上の戯言(=たわごと)は許さんぞ!」

 ラットの眼前に顔を寄せたアルカン。その気迫と表情に押されて彼女は、思わず一歩退(=しりぞ)いた。

「……ご、ごめんなさい」

「ふん! 私はもう行くぞ」

 腹立(=ふくりゅう)したアルカンは、息荒くその場を立ち去った。ラットはその後姿を見送ったが、姿が見えなくなると同時にすっと気を取り直し、彼女は彼のあとをこっそりと付けて行った。

「あたしの記者魂、舐めて貰っちゃあ困るわね」そう彼女は漏らし、ICレコーダーをギュッと握り直した。

 

 リーラにある裏通りを進んでいたアルカンは、何かの気配を感じていた。この通りは常に(=もや)が立ちこめ、怪しげな雰囲気と不穏な空気で終日不安に感じさせる場所だが、先程の記者ラットがあとを付けているんだと思い、彼は気を楽にした。彼女の執着心は曲者(=くせもの)で、彼は以前本当にヤバイ状態にまで追い詰められた経験があり、正直ぬかりは許されなかった。だが今日は別段神経を尖らす必要はなかった。何故ならここを通るのは本当に家までの近道だから故、彼を付けても浮き彫りになるものは何もないからだ。それに裏組織<ビート>に襲われる心配も――

 藪から棒に、アルカンは何者かに口を塞がれてしまった。どうやらクロロホルムを浸み込ませたハンカチを使っているらしく、彼は何の抵抗も出来ないままに意識を失ってしまった。そして眠りに落ちた彼を、その何者かが引き摺って闇夜に姿を消した。そして正にその時、アルカンのあとを追っていたラットがやって来て、その場を何事も無かったかのように通り過ぎて行った。彼女の双眸(=そうぼう)には虎視眈々と辺りを見つめる記者らしい瞳使いが窺えたが、残念なことにアルカン達の姿を捉えることは出来なかった。

 

「……!」

 アルカンは目を覚まし、ガバッと上体を起こした。

「起きたか、アルカン」

「その声は……ビルミートか!?」

「そうだ」

 顔を巡らし、そして(=ようや)く彼は安楽椅子に座る雄鯨のビルミートの姿を捉えた。その居丈高な容姿は、鯨だけに体が大きいだけではなかった。彼はその鯨の稟質(=ひんしつ)に加え、贅沢な暮らしで全身がむっちりとしており、特に腹には大きな、ビール腹ならぬボール腹を携えているのだ。しかし、そんな彼を(=あなど)ってはならない。何故なら彼こそ裏組織<ビート>のボスであり、また生みの親であるからだ。元来巨躯な鯨という種族である彼は、でっぷりとした体型でも一般の鯨と同じような動きを見せ、特にその巨体から繰り出す重々(=じゅうじゅう)たる一撃は、並みの生き物など容易く殺してしまう。加えて、自由に振り回すことの出来る尾鰭からの一撃は、トルクが非常に大きく投石機並みの威力を誇り、もはや殺戮兵器と言っても逸言(=いつげん)ではないのだ。

「ビルミート、これは一体なんの真似だ?」

「悪い、実はお前に話したいことがあってな。それにお前は例の記者に付け回されていたし、丁度良いと思ったのさ」

「だがあのまま通っていれば、問題はなかっただろ?」

「今言っただろ、お前に話したいことがあるって」

「……そうだったな、悪い」

「まあ気にするな、昔からの付き合いじゃないか」

 そう言ってビルミートは、その巨体をのっそりと安楽椅子から持ち上げると、まだ意識が朦朧(=もうろう)としているアルカンに歩み寄り手を差し伸べた。アルカンはその手を確りと握ると、彼に支えられながら体を立たせた。

「そういやビルミート、お前また太ったんじゃないのか?」

「そうか? まあ俺は鯨だしな、体が大きいのは(=さが)だ。お前はお前でもうちょっと体を大きくしたらどうだ、鯱らしくないぞ」

「はは、まあ私にはこれがベストなのさ。それにしても私に話とは、一体何なんだ?」

「それがだな、最近ここらを嗅ぎ回ってる奴がいるらしいんだ」

「嗅ぎ回ってるって、あの記者のラットのことか?」

「おいおい、そんなわけないだろ。詳しいことはまだ分かってないが、どうやら新手らしい」

「新手……まさかそいつも、私達のことを探っているのか?」

「いや、(=むし)ろここ<ビート>のことを探ってるらしい。だがお前も、少なからず気を付けた方がいい」

「なるほど」

「……とまぁ、今日はそんなところだ」

「分かった。しかしなんでまたクロロホルムなんかを使ったんだ? 記者に付け回されてるのは、ラットに関しては日常茶飯事だったろ?」

「ラットの動きは読めるが、新手の奴の動きはまだ未知数なんだぞ。もしそいつが近くで張り込んでいて、お前が会話してるところを見られたらお仕舞いだろ」

 アルカンは納得して頷いた。なるほどクロロホルムは突飛なやり方だったが、ビルミートの言う通り新手の奴が今何処に潜んでいるのか分からず、そんな状況でお互いが顔見知りであることを示しては危険だ。それならアルカンが襲われたように見せかけるのが、この場合最善の手段というわけだ。

「確かに、それもそうだな。助かったよ」

「なぁに幼馴染みだから良いってことよ、それに互い手を結んだ仲だしな」

「ああ。それじゃあ私は、これで失礼するとしよう」

 アルカンはビルミートに別れを告げると、<ビート>の拠点から靄が蔓延(=はびこ)る裏通りへと出た。そして彼は周囲を注意深く観察すると、再び帰路へと付いた。

 (=しばら)く帰りの裏通りを進み、家まであと半分近くの路地に差し掛かった時だった。アルカンは靄の中に浮かぶ一台の屋台に気が付いた。確かにここをもう少し先に行くと、大通りに出て人通りが多い所にはなるのだが、何故そこからこんな路地に入って店を開いているのだろうか。そう考えていた時ふと、彼はビルミートの言葉を思い出した。そういえば最近このリーラには、謎の新手が(=うごめ)いているんだっけと。

 アルカンは慎重に歩を進めた。そしてこの靄の中で、屋台の様子がある程度確認出来る所にまで迫った。どうやらリヤカーで動かす移動式の屋台のようで、そこから湯気が靄と混じって浮かんでいた。彼は更に先へと進むと、その店がおでん屋であると見て取った――仕切られた什器(=じゅうき)と具が何よりの証拠だ。そしてその屋台の店主なのだが、一見いそうでいなさそうな年行った雄の老鼠だった。鼠が屋台を構えているのが異様なのではなく、このリーラ市は海に隣接しており――だから<ビート>にとっても色々と好都合なのだが――住民達も皆その海に関わる種族なのだ。だから鼠のような種がここにいるのは、基本的に場違いなのだ。そのためアルカンは、警戒しながら屋台の様子を探ることにした。

「爺さん、ここやってるか?」

「おお、お客さんか。ああやっておるよ」

「それじゃあ大根と卵をくれ、あと日本酒も頼む」

「ほい」

 老鼠は屋台の下にある収納棚から瓶を取り出し、おでん用什器の横に置いてある猪口(=ちょこ)と食器類を手に取ると、それらをアルカンの手前に置いて日本酒を瓶から猪口へと注いだ。その間アルカンは、手荷物の肩掛け鞄とアタッシュケースを足元に置くと、姿勢を正した。

「爺さん、随分と珍しい所に店を構えてるんだな」

「そうかい? (=わし)としては丁度いいと思ったんじゃがな」

 そう言って老鼠は、大根と卵をトングで掴みアルカンの皿に乗せた。

「ここをもう少し先に行けば大通りだ、そこに店を出せば客足も良くなると思うぞ」

「あー、そこか。実は儂もそうしようと思ったんじゃが、道路使用許可が下りなくての、仕方なくここにしたんじゃよ」

「なるほど……しかしここら一帯、特に内側の裏通りは危険が多いことで有名なんだが、それは知ってるのか?」

「危険、じゃと?」

「ああ。ここらの路地は丁度境目なんだが、中に入ると裏組織<ビート>の縄張りだ。下手にそのテリトリーに入ると、ショバ代の徴収だけじゃ済まされないだろう」

「じゃがさっき、お客さんはその裏通りから来なかったかの?」

 思わずぎくりとしたアルカン。(まさかこの老鼠、さりげなく俺のことを見ていたのか?)そう彼は思ったが、そんなことを考えて顔に焦りを見せるのは良くないと、彼はすぐに心を落ち着かせて皿に乗った大根を頬張った。

「……実はな、私はリーラ市役所で課長をしているんだ。しかも只の課長じゃない、偽言を言われて報道で取り上げられている。そのおかげで私は、悪い意味でも良い意味でも有名なんだ。その良い意味ってのが、正にそのことなのさ」

「ほほう、つまりその<ビート>っちゅう組織は、一応はちゃんと人を選んでいるんじゃな」

「まあ当然と言えば当然だろう。名の知れた人物に関わる程、自分達の存在を明るみに出すことはないからな」

「なるほどじゃな。それにしてもまあ、また偽言とは大変じゃのう。それは言葉通り正真正銘の嘘なんじゃろ?」

「当たり前さ。賄賂なんて受け取ってもないのに勝手に受け取っただなんて、全く迷惑もいいところだ」と言い、アルカンは卵を一口で頬張った。しかし思った以上に卵が熱く、彼は思わず顔を歪めた。そしてそれを紛らわそうと彼は、猪口を手に取ってぐいと飲み干した。すると空になった猪口に、老鼠が透かさず日本酒をついだ。

「まあ記者達は、とにかく話を作るのが好きじゃからな」

「全く本当にその通りだ。そんなあやふやなことをするから、この世間にも変な穴が出来るんだよな――っと爺さん、がんもと薩摩揚げを追加で頼む」

「ほい」

 最初はアルカンは、普通にこの老鼠の調査を行おうと思っていたのだが、日頃の鬱憤が溜まっていたせいか、彼は最初の日本酒一杯から勢いが付いてしまい、当初の予定などすっかり忘れて愚痴に走ってしまった。それから更に日本酒を(=あお)っておでんを(=つま)んだ彼は、重要なボーナスが入ったアタッシュケースのこともついには忘れて、屋台での食事と会話の一時を存分に堪能した。

 

「全く、何処を探してもいないわね」

 そう(=こぼ)した記者のラット。彼女は裏通りを抜けて路地へと(=いで)、開けた大通りへと出たのだが、アルカンの姿を完全に見失ってしまい気落ちしていた。一応周囲数百メートルの範囲で聞き込み調査はしたが、誰かに問い(=ただ)しても目撃情報は一切得られなかった。

「……もう一度、危ないけど裏通りに入って見ようかしら」

 そう言って彼女は、裏通りへと続く道に戻って行った。

 しかしその後も、彼女のその両眼には何も(=・・)めぼしいものは映らず、結局再び裏通りを平和に通り過ぎて、彼女はこれが本当は良いことなのか悪いことなのかと、そんな(=わだかま)りを残した(=まま)今日の調査を断念することにした。

 だが彼女には、もう一つやるべきことがあった。現在の時刻夜九時半ならまだ大丈夫だと考えた彼女は、今度は普通の道を通って何処か見慣れない場所へと向かった。そしてその先にある一軒の豪壮な邸宅に辿り着くと、彼女は門口(=かどぐち)の横にある呼び鈴を鳴らし、インターホンに向かってこう尋ねた。

「夜分遅くすみませんが、少し取材をさせて貰えないでしょうか?」

 

 

 

 朝、外で小鳥達が鳴いているのを聞き、鯱のアルカンはゆっくりと目を覚ました。(=おもむろ)に体を起こし、軽く伸びをして関節を鳴らすと、彼は大きく深呼吸をした。だがその直後、彼は昨日の出来事をハッと思い出した。そういえば昨晩は、調査のためにと路地に構えられたおでん屋で食事をして、そこの店主である老鼠と話しながら日本酒を(=たしな)んでいたっけ。それから……と、どうやらそれ以上の記憶はないらしい。それを知った刹那、彼は思わず背筋を凍らせた。

「まずい、アタッシュケースは!?」

 自分の肩掛け鞄などどうでも良かった、例えリーラ市役所の資料が入っていたとしても。何よりアタッシュケースを紛失するということは、折角のボーナスを失うだけじゃなく、最悪賄賂の存在がばれてしまう危険性があるのだ。そのことに戦慄(=せんりつ)した彼は、血眼にして部屋中を探し回ったが、何も見つからなかった。彼は急いで寝室を出て、リビングに慌てて飛び出した――と次の瞬間、彼は目の前の光景に、ホッと胸を撫で下ろした。リビングにはテーブルが一台あり、その上には自分の肩掛け鞄とアタッシュケースがきちんと置かれていたのだ。

 しかし油断は禁物、彼は念には念を入れてアタッシュケースを調べることにした。まず始めに外見だが、鍵を開けた痕跡はなく、(=いじ)られた様子もなかった。次に彼は、すっかり目覚めた頭で暗証番号を思い出しながら、アタッシュケースの鍵を外した。そしてその(=ふた)を、彼はゆっくりと持ち上げて見た。

「……ふぅー、良かった。全く問題はないな」

 一応札束をぱらぱらと捲って見たが、それは何の変哲もない正真正銘の札束だった。それと憂慮すべきことでもないが、一応彼は自身の鞄も調べて見た。中は荒らされてはおらず、何も変わってはいなかった。そうと分かった瞬間、彼はもう一度アタッシュケースから札束を手にすると、それを優しく撫でた。

 だが唐突に、アルカンは安堵の情態から一転して焦り始めた。普通酒などを飲んで解放感を楽しむのは花金、しかし昨日は花金乃至(=ないし)休日ではなく、今日は紛れもない平日だったのだ。そのことを思い出して彼は時計の方を見遣ると、時刻は既に出勤五分前だった。慌てて彼は棚から食パンを一切れ取り出すと、それを頬張りながら、冷蔵から取り出した牛乳を喇叭(=らっぱ)飲みした。そして彼はアタッシュケースをそのままにすると、肩掛け鞄と共に急いで家を飛び出した。

 仕事場であるリーラ市役所に向かう道中、彼はいつも通り例の裏通りに入って行ったが、昨晩立ち寄ったおでん屋台を見かけることはなかった。夜だけやっているのか、それとももう移動してしまったのか……そう考えながら彼は、職場へと更に急いだ。

 

 リーラ市役所に着くと、表玄関が異様に騒がしくなっていた。報道陣達が(=ひしめ)き合い、入り口は完全に塞がれた状態だった。仕方なくアルカンは裏へと回り、職員専用の裏口から中に入った。そして廊下の十字路を先へと進むと、税務課の職場に繋がる扉を抜けた。すると、デスクにいた何人かが彼に気付いて、その内の一人がせわしい様子で声を掛けた。

「あ、課長! 今大変なことに――」

「ああ分かってる、一体あれはなんなんだ?」

「誰かが課長が賄賂を受け取ったって、テレビ局にデマを流したらしいんです」

「何だって!? 全くふざけた奴等だ。よし、私が(=じか)に面前に出るか」

「えっ、大丈夫ですか? 良かったら私達でなんとか対処しますが」

「いや、いい。高が嘘っぱち一つであんな風にされては、これからが(=たま)ったもんじゃないだろ」

「……確かにそうですね。でも、本当に大丈夫でしょうか?」

「任せておけ」

 そう言ってアルカンは、その足で玄関口へと向かった。多勢な記者達の前に彼が姿を表すと、途端にフラッシュが焚かれ始めた。

「アルカンさん! 賄賂を受け取ったという情報を貰ったのですが、それは本当なのでしょうか?」

「からっきしの嘘だ」

「でも、賄賂を渡して公務員にさせて貰う予定だったと自供した母親がいるんですが、それに関しては?」

 そう質問して来たのは、あの鮫の記者、ラットだった。彼女の言葉に、これはかなりやばいとアルカンは(=さと)った。くそっ、あのババア話しやがったな……あれほど言うなと忠告したのに。

「な、なんだって?」と、アルカンは動揺を隠しつつ答えた。

「私は昨日、リーラ市役所から出て来たとある女性に取材をしたんです。辛抱強く尋ねたところ、とうとう口を割ったんです」

「……しかしだな、口述だけでは証拠不十分だぞ。物的証拠がなければな」

「しかしその女性は、非常に多額のお金を銀行から下ろしていました。旅行や買い物などは一切せず、そのお金はあっと言う間に消えてしまいました。短期間で一体その大金は何処で使われたんでしょうか?」

「ふん、そんなの私の知ったことではない。兎に角私が賄賂を受け取ったと言いたいのなら、ちゃんとした証拠を持って来てなさい」

 そう言い残し、彼は身を(=ひるがえ)して足早にリーラ市役所へと戻った。後ろからは多くの質問が飛び交ったが、そのどれをも彼は無視した。

 税務課室に戻ったアルカンは、真っ直ぐ課長室へ向かった。途中職員の一人から「あれ、本当じゃないですよね?」と聞かれ、彼は「当然だ」と答えた。そして課長室に入った彼は、安楽椅子に重々しくその痩躯を沈めると、長い溜め息を漏らした。

 

 アルカンは一日の仕事を終え、(=うつむ)き様にリーラ市役所をあとにした。すると表で辛抱強く待っていた例の記者、ラットが彼に歩み寄った。勿論、ICレコーダーを向けて。

「アルカンさん、これからあなたの家が捜索されるようですね」

「な――今、何て言った?」

 彼女の問い掛けに、彼は思わず問い返した。

「聞いてないのですか? 今朝の報道のあと、警察があなたの家を家宅捜索することにしたんです」

「……全く、聞いてなかったぞ」

「一応このリーラ市役所にも電話が行ったと思うんですが」

「私は何も聞いてない」

「そうですか。それではこれからどうなされます?」

「どうもこうも……賄賂の金が見つからなければそれで良いのだろ?」

「その言い方はつまり、賄賂を受け取ったと見ていいんですね?」

「無かったら受け取っていなかった、そういうことだ」

「分かりました」

 そしてアルカンはそそくさと彼女から離れた。彼はいつものように帰路に付いたが、いつもの如くその後ろを彼女が追った。

 それからアルカンは、いつもの近道、いつもの裏通りを進んだ。しかしその通りは、どことなくいつもと違っていた。普段なら靄程度に(=かす)んでいる通りが、今日は霧、しかもかなりの濃霧で覆われていた。アルカンはここを何度も通っているので、道に迷う心配はなかったが何か不吉な予感を感じていた。だがそれは気にし過ぎだと、彼は無理矢理落ち着きを払っていた。

 しかしながら、その不吉な予感は見事的中していた。今日もまた何者かに、彼は口を押さえられてしまったのだ――しかも前と同じクロロホルムで。このパターンは今ではビルミートの呼び出しを意味するが、現在の状況で呼び出しを食らうとはかなりまずいことに違いないと、アルカンは不安と思いながら静かに意識を失った。

 

「……んん……」

「アルカン、目を覚ましたか」

「あ、あぁ」

 アルカンはまず上体を起こし、寝惚け眼を慣らした。そして目に、相変わらずどでかい体躯をした鯨のビルミートの姿が映った。しかし今日の彼は、いつもとは違うオーラを発していた。アルカンはある程度察しがついていたので、思わず鳥肌を立たせた。

「……なあビルミート、今日私を呼んだのは、その、賄賂のこと、だな?」

「そうだ。そしてお前の処遇をどうするか、ここで決める」

「処遇、だと?」

「俺はお前を、幼馴染みで大親友だと思ってた。しかしお前の依頼で、裏で作為して公務員に(=)し上げたりするビジネスに害が出てしまったからには、ただじゃあ済ませられない。この<ビート>の命脈にも関わるからな」

「そ、それじゃあ、私を一体どうするって言うんだ?」

「こうするのさ」

 ビルミートはアルカンに近寄ると、手を差し伸べた。何が起きるのかと不安になったが、とりあえずアルカンは彼の分厚い手を掴むと、慎重に体を立たせた。

 その刹那、ビルミートのもう片方の手がアルカンの腹を捉え、鈍重な音を響かせた。

「ぐふっ――!」

「今のは軽くだ。俺が本気を出したらお前など一発で(=)れる」

 しかし軽くとは言え、鯨のその巨体から繰り出された(=こぶし)にアルカンは、(=たちま)ち痛苦な表情を浮かべて(=くずお)れた。

「お前も馬鹿だよな、リビングに堂々とアタッシュケースを置くなぞ、不用心にも程がある」

「あ、あれは……偶々(=たまたま)、忘れていただけだ。いつもならちゃんと、隠しているんだ」

「だが結果は結果だ。いいか、お前のヘマで俺達<ビート>の存在が明るみに出るかも知れない。表舞台ではこの港湾の労働組合として順調に活動して来たが、お前のせいで表裏(=ひょうり)全てがおじゃんになるんだぞ」

「じゃ、じゃあ私は、一体何をすればいいんだ?」

「さぁな。だが待ち受けてるのは“死”かも知れないな」

 アルカンはハッとし、息を呑んだ。まだ人生は三分の一程度しか体験していないのに、そこで死ぬのは余りにも早過ぎだ。

「……頼むビルミート、私に助かる道は無いのか?」

「一つだけある。なあに簡単なことさ、俺達<ビート>の仲間になるだけだ」

「なんだって!?」

「ここで一生闇の中で暮らせば、誰もお前を問い詰めることは出来ず、結果俺達との関係性もバレない」

 再びアルカンは息を呑んだ。確かに、彼の意見は正しいのだろう。しかしこの裏組織<ビート>で暮らすということは、それこそ死を意味するかも知れない。見ての通り目の前のビルミートは極悪非道で人非人(=にんぴにん)だ。今はアルカンが親友だから手を抜いているだけで、本質にはもっと凶悪で恐ろしいものがある。そんなボスのところに居ては、只でさえ港湾労働組合は危なげな人が多いのに、貧弱な体型の彼では旨くやっていけるわけもない。だがこのまま表に戻っても、ビルミートは確実にアルカンを殺すだろう。彼は<ビート>の存亡に関わることなら、例え両親でも手段を問わない奴だ。事実、彼の両親はその彼に殺されたのだから……。

 そう考えると、表に逃げ道など毛頭存在しえない。「さあ、どうする?」というビルミートの冷淡に詰問に、アルカンは齷齪(=あくせく)と答えを導き出そうとした。今更ながら彼は、欲を張らずにあのボーナスを受け取らなければ良かったと、痛く後悔した。

「……明日まで、待って貰えないか?」

「明日だって? おいおいアルカン、もうお前の賄賂は見つかってるんだぞ。留置場に送られてはどうやってここに来るって言うんだ」

「分かった、なら少しだけ時間をくれないか? 少し、外で考えたいんだ」

「なら待ち時間は一時間としよう。それまでにお前がここに戻って来なかったら、例え警察に護衛されていようと、お前を確実に殺す」

 生唾がじわりと出て、アルカンはそれをごくりと飲んだ。

 それから彼は、何とか一人で立ち上がると、無言で頭を下げて部屋を出た。そして廊下を右へと進み、目の前にある隠し扉を抜けて彼は裏通りへと出た。そこは未だ濃霧が漂っており、視界は依然として悪かった。彼はそんな裏通りに目を凝らし、注意を払いながら静かに大通りの方へ足を進めた。目的はただ一つ、あのおでん屋だった。裏組織<ビート>に入ったら最後、恐らくアルカンの場合は生涯そこから出ることが許されず、それなら昨晩寄った屋台で最後の晩餐を行おうと考えたのだ。

 ただ一つ心配なのが、老鼠が彼の犯罪を知っているかどうかだった。前回の時にアルカンは、自分がリーラ市役所の課長だと喋ってしまっていた。もし今日のニュースを見たり聞いたりしていたら、相手が警察に通報するかも知れない。だが少しでも余裕があれば、彼はおでんを嗜むつもりでいた。何せ食事を終えたら、二度と彼はこの表世界に姿を見せないだろうからだ。

 

 暫く裏通りを進み、大通りへと繋がる路地に入った。すると先の方で、(=かす)かに明かりが浮かんでいるのをアルカンは認めた。更に歩を進めると、それは昨日と同じ屋台から漏れている光で、店主もあの老鼠であることが分かった。彼は天に感謝しながら、一目散にその屋台へ駆け寄った。

「爺さん! もう店はやってるのか?」

「お、勿論じゃよ。ささ、そこに座って――っと、お客さんは確か、昨日も来ておったな」

「ああ、この屋台が気に入ってな」

「それは嬉しいことじゃ、今後も来て欲しいもんじゃのお」

 その言葉に、アルカンは肩を落とした。

「それは、もう無理なんだ。今日でここに来るのは最後だろう」

「最後じゃと? 何か深刻なことでもあったのかい?」

 アルカンはまともに答えるわけにはいかなかったが、最後だということで、目の前の老鼠に言える範囲で悩みを打ち明けることにした。それにどうやらこの老鼠は、平然とした様子から彼の(=)を知らないようだったからだ。

「……実はだな、私には親友の鯨がいて、そいつとついさっきいざこざがあったんだ」

「ほうほう。じゃがそれだけで、何故今日が最後となるんじゃ?」

「あいつは私とは違い、かなりの大物で目を付けられたら最後なんだ」

「しかし、昨日確かお客さんは言ってなかったかの、自分は課長じゃと」

「ああ、確かに言った。だが課長の私でも、彼には歯が立たないんだ」

「となると、市長か誰かかの?」

「まあ、ある意味そうかも知れない。統率してる存在だからな」

「なるほど。それでその鯨に目を付けられたお客さんは、今追い詰められているんじゃな」

「そういうことだ。そして逃げ道は一つしかない。だがそこも、逃げ道と言っていいものかどうか……」

「それは、どういうことなんじゃ?」

「その鯨は、私を容赦なく甚振(=いたぶ)って来るんだ。しかし逃げれば、もっと厳しい仕打ちが待っているに違いない。

 だが、どうして親友だった間柄でそんなことが出来るんだ? 私は身体的にもそうだが、精神的にも辛くてしょうがないんだ」

「……そうか。こういう言い方は失礼かも知れんが、そんなことをされてもその鯨を“親友”と呼ぶのか?」

「昔から色々と、助けて貰ってたんだ――つい最近まではな。あいつは鯨の中でもずば抜けて図体がでかい、だが私は鯱なのに体が小さく、昔はよく周りから虐められてたんだ。彼はそんな私と、時には遊んでくれ、時には救いの手を差し伸べてくれた。大きく言うんなら彼は、私の人生の恩人でもあるんだ」

「なるほど……じゃがそれを糧に、お客さんを(=もてあそ)ぶのはいけ好かんのう」

「だが今まで救って来て貰ったことを考えれば、少しは我慢すべきだと思うんだ」

 ここで老鼠は、おでん什器の横にある食器類を手にすると、それらをアルカンの前に並べながらこう質問した。

「本当のところ、お客さんはどう思ってるんじゃ?」

「どう、って?」

「その鯨のことじゃよ。恩人だから何をしていいわけでもなかろう? お客さんは生真面目な方じゃ、助けてくれた人になら反抗すらしないんじゃな」

「それは、普通そうだろ」

「それはいかんな。人を助けたと見せかけ、その人物を(=)き使うのは昔のヒューマントラフィック(=人身売買)のようじゃ。

 お客さん、大事なのは過去の善行ではないぞ、どれ程悪いことをして来たかじゃ。ヒーローが人を殺してもいいと、お客さんは思わんじゃろ?」

「た、確かに……」と、アルカンは思わず頷いた。

「じゃから、素直に思う気持ちを述べればいいんじゃよ。お客さんは実際のところ、その鯨をどう思ってるんじゃ?」

 

 

 

(以下の二つから、アルカンの答えを選択して下さい。それによってストーリーが分岐します)

A. 零落させてやりたい (1-Aへ)

X. 喰い殺してやりたい (1-Xへ)


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