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  著者  :fim-Delta

 作成日 :2008/09/08

第一完成日:2008/09/21

 

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 雄鯱のアルカンは、おでん屋の店主である老鼠に答えた。

「私は、あの鯨を零落(=れいらく)させてやりたい」

「なるほどな。具体的にはどんな感じじゃ?」

「どうだっていい。……だがまぁ、そうだな、彼の面目をとことん失わせる方法がいいな」

「ふむふむ。その鯨には何か、弱点があるのかの?」

「弱点? ふん、あいつに限ってあるものか。あの巨体と権力があれば無敵だ」

「しかし、何かしらあるじゃろ。例えばそうじゃな、その鯨の体が大きいと言ったが、それは全体的に大きいのか、それとも単に太ってるだけなのか」

「そうだなあ、そう言われると太ってると言った方が近いな。だが所謂(=いわゆる)堅肥りってやつで、太ってるとはまた違う気がする」

「じゃがそういう風に見えるのなら、その鯨は食欲が旺盛ということなんじゃな」

「まあそうだな。だから腕や足はまだ立派だが、腹だけはどんどんと出て来てるんだ」

「それはつまり、その鯨には常人より強い食欲があるということじゃな」

「……何が言いたいんだ、爺さん?」

 すると老鼠が、(=おもむろ)に屋台の下でごそごそやり出した。何事かとアルカンが、おでん什器(=じゅうき)に身を乗り出して覗こうとした正にその時、老鼠は再び体を起こし、そして何やら液体が入った硝子瓶を差し出して来た。

「こ、これは?」

「これは特別な薬でな、生命の三大欲求の内、最も強いものを増幅させることが出来るんじゃ」

「なんか……胡散臭(=うさんくさ)いな」

「まあ最初はそう思うかも知れんが、使って見れば分かるぞ。もし睡眠欲が強ければ、この液体を飲んだ生き物は最終的に、一生眠り続けることになる。性欲が強ければ、その巨大になり過ぎた欲求を満たし切れずに発狂死する。そしてもし食欲が強ければ、最終的に食べることを止められなくなり、限界まで醜く肥え太ってしまうんじゃ」

 この説明に、内容は確かに面白そうだったが、やはりアルカンは納得出来なかった。だが老鼠が、半ば無理矢理にその硝子瓶を渡して来たため、彼はその薬を受け取ることにした。

「使えば分かる。兎に角これで、その鯨の面目を潰してやるんじゃ。因みに量は一日、茶匙(=ちゃさじ)一杯分じゃぞ、料理に混ぜても構わん」

「……とりあえずサンキュ」

 ここでキリが良いと見て取ったのか、老鼠が肩を上げ落とし、こう問い掛けた。

「そいじゃお客さん、そろそろ注文の方はいいかの?」

「おっと、そういえばそうだったな。それじゃあ……今日は最後だ、全種類頼む」

「ほいな」

 そしてアルカンは、最後の晩餐を堪能した。時間制限があったため充分な時間は過ごせず、酒も飲むわけにはいかなかったが、それでも充分満足だった。

 

「爺さん、時間だから私はもう行くな。今日は色々とありがとう」

「いやいや、大したことはしておらんよ」

「……それじゃあまた、会えたら」

「ああ、その時まで楽しみに待っておるぞ」

 そしてアルカンはゆっくりと腰を上げ、老鼠に背を向けると、霧深い裏通りに向かって歩き始めた。その道中、彼は貰った薬が危険なものかどうかを確かめるため、中の液体を指で掬って一舐めして見た。もしこれが仮に毒薬でも、これから訪れるものよりは苦しくないだろうし、死んでも悔いは残らない。またもし毒薬でないのなら、それはそれで雄鯨ビルミートに効果を試す価値がある。

 気が付くと、彼は既に裏組織<ビート>へと通ずる隠し扉の前に来ていた。そしてどうやら、薬は毒薬ではないらしい。ならば、その薬をビルミートに使う機会を窺うとしよう。もし老鼠の言う通りなら、<ビート>にいても曙光が射すかも知れない。

 そんなことを考えながら、彼は壁に見立てた扉をゆっくりと開けた。そして中に入った瞬間、彼は完全に<ビート>の一員となった。

 

 

 

 翌日、鯱のアルカンの裏組織<ビート>に入って初の仕事日だ。彼は<ビート>に入ったからには、勿論表向きの仕事である港湾労働もこなさなくてはならない。しかし痩身で、ビルミートの手下達のようながっしりとした体格ではない彼に、その業務は無理にも程があった。力が持たず、失敗を何度も繰り返し、とうとう初日して彼はビルミートから(=やき)を入れられる破目になった。

「くっ……」

「いいか、ここに逃げ込んで来たからには、元親友だろうが何だろうが容赦しないぞ」

 アルカンは雄鯨のビルミートから重い一発――しかし巨躯の彼にとっては軽い一発――を受け、(=あざ)になった左肩を(=さす)った。

「次からはちゃんとやる、そうだよな?」

「だ、だが、私はこんなに体が貧弱なんだぞ。君の手下達みたいに力強くない」

「ならここを出るか? だがその時は、お前は賄賂を受け取った税務課の課長として逮捕され、その後は静かに俺の手下に殺される」

 かなり厳しい窮地にいたアルカンだったが、実はある秘策があった。それが旨く行けばかなりの変化があるかも知れない。

「……な、なあビルミート。頼むから私にも出来る仕事をさせて貰えないか?」

「なんだ、怠けるつもりか? まぁだが、確かにお前には無謀だったかも知れないな。それじゃあ聞くが、一体何がしたい?」

「そうだな……例えば、料理なんてのはどうだ? 食堂で見たんだが、スタッフの数が極めて少ない気がする。あの人数でここの全員の食事を(=まかな)うのは、かなりハードだと思うんだが」

「新入りにしては色々と言うな、そこらは元親友だということで許してやるが。だが――確かにそれは名案かもな。しかしお前に料理なんて出来るのか?」

「港湾労働よりは出来るはずだ、力仕事じゃないしな」

「……よし、分かった、その案を認めよう。俺の手下に今から厨房に伝言を伝えさせる、お前は一旦自室で待機してろ」

「分かった」

 

 ビルミートに言われた通り、自室で待機していたアルカンは(=およ)そ十分程して、手下の一人に厨房へと案内されることになった。そして食堂からのとは別の、厨房専用の裏口から彼はそこへと入った。

 中に入ると、そこにはビルミートとは違い、完全に脂肪太りした大きな沖巨頭(=おきごんどう)がいた。厨房スタッフは全員見たことがあると思っていたが、これほどまでに太った人は初めて見た。コックコートがパツンパツンで、ボタンが弾けて料理に入りはしないかと心配になったが、どうやらボタンが外れた形跡が無いので安心した。

「あなたがアルカンさんですね? 僕はここでシェフをしている者です、宜しく」

「あ、あぁ、宜しくお願いします」

 沖巨頭ことシェフが手を差し出して来たので、アルカンはそれを握った。ビルミートと同じようにシェフの手は分厚かったが、肉付いてるせいでそれは凄く柔らかかった。アルカンはそんな手を握りながら、なるほど彼はシェフだから、今まで食堂で見かけることはなかったんだなと納得した。

 しかしそれにしても、港湾労働者達も太って――筋肉が鍛えられた堅肥りなので、どちらかと言えば良い意味で――いるが、ここはまた格段に太っている。スタッフ達はまあそれなりの肥満だが、内二人はかなり大きく、シェフに至ってはビルミートと同じぐらいだった。唯一違うのが、明白な高い体脂肪率だけだった。

「アルカンさん、どうかしましたか?」

 今までの<ビート>とは違った雰囲気に、アルカンはつい拍子抜けしていた。これ程までに穏和(=おんわ)な人達がいたとは……どうやら厨房は厨房で、一つの(=まと)まりが出来ているようだ。

「あ、い、いえ、別に」と、アルカンは慌てて返答した。

「それじゃあ簡単に説明しますね。基本的に皿洗いとか決まった担当はなく、自分達でやりたいようにやらせています。ただ確りとオーダーに答えられるよう、お互いに簡単な相談はしますけどね。

 それと、後ろにいるのが僕のスタッフ達です。少ないけど、これで全員なんです」

 そう言ってシェフが示したのは、鯱、海豚、鯨、鮫、沖巨頭と、正にこのリーラ市に住む湾岸地域特有の種族が(=そろ)っていた。

「それじゃあ君にはまず、料理の腕前をテストさせて貰うよ。実はボスに、アルカンさんには厳しくやるよう言われててね。皿洗いなどぬるいことはさせるなって言われてるんだ」

「しかし、私は一度も料理はしたことないんですが?」

「とりあえずやって見るだけでいいんです。最初は誰だって下手だけど、その中でも(=まれ)に腕が立ちそうな人がいたりしますから」

「……分かりました」

 それからアルカンは、簡単に調理器具などの扱いを試された。包丁を使って料理もした――勿論シェフの監視と指導の元で。この時彼は、この厨房で働けるよう兎に角努力した。あんな港湾労働をしていては体が持たない、だがこの場所なら、何とかやっていけそうな気がした。それに何より、老鼠から貰ったあの嘘かも知れない薬を使う機会も得られるため、彼は本当に真剣にテストに取り組んだ。その結果、思った以上の成果を上げ、プロからすればまだまだド素人かも知れないが、ド素人からして見れば彼は中々腕が立っていた。

「アルカンさん、本当に料理をするのは初めてなんですか?」

「まあ、正確には学校の家庭科で調理実習をしたことはあります」

「そうですか……どうやらあなたには、思った以上の才能があるかも知れません。腕としてはまだまだですが、僕もこれだと安心出来ます」

「ほ、本当ですか?」とアルカンは、褒め言葉に少々赤面しつつ答えた。

「ええ。それじゃあもう少しで夕食作りが始まるので、あなたにはまず食材を(=さば)いて貰います。大丈夫、簡単なものからやらせますから」

 そう言ってシェフは、キャベツやジャガイモ、人参などをバットに載せた。

「これらを一口サイズに乱切りして下さい。一口と言っても少し勝手が違って、料理の基本は陸上生物の口に合わせたものです。僕達の口は彼等よりも大きいので、自分が軽く口に頬張れる程度の大きさにして下さい」

「ん、どうして態々(=わざわざ)陸上生物に合わせるんです? ここには海洋生物しかいないはずでは?」

「そこは料理の基本ですよ。段階を踏むのが初心者にまず必要なことで、基礎から学ばないと次の蹴上げで(=つまづき)きますから」

「なるほど。ですが、私の腕に合わせていいんですか? 本来なら私達海洋生物の大きさで切りますよね?」

「勿論です。だけどあなたはまだ卵、この具材を使った料理は元々具が小さいものなんで安心して下さい。でも来週からはきちんとした大きさでやって貰いますよ」

 アルカンは頷き、シェフからバットを受け取った。そしてそれを自分のスペースに運ぶと、まだぎこちないながらも野菜を捌いていった。出来上がったものは、決して料理に使われるような綺麗な形ではなかったが、それでも彼は清々しい達成感を得ていた――なんだ、料理って思った以上に楽しいじゃないか。

 それから彼は、シェフの指示で日に日に形を整えるようにした。最初は本当に雑な切り方だったが、料理に慣れ親しんで行くにつれ、彼はその形を確りと仕上げられるようになっていた。

 

 それから一週間が過ぎた。蓋然的(=がいぜんてき)に厨房で働かなくてはならない強制感からか、アルカンは仕事を着実に覚え、そしてこなして行った。(=)しくはシェフが言った「才能があるかも」という言葉に意欲が出たのかも知れない。どちらにせよ彼は、その腕を認められ――決して上手いわけではないが――初めて料理の一連を託された。度々シェフから調理器具の指導を受けては来たが、料理の方は初めてだった。しかもやはり料理を作るのは簡単ではなく、幾度となく失敗した。だがそれらは、(=まかな)い料理という形で捨てずにアルカン達で食べた。ここで一つ幸いだったのが、この厨房にいる誰もがシェフを含め、太っていて大食いだということだ。きっとこの<ビート>の表舞台で働く港湾労働者達より、仕事量が少なく且つ食べる量が多いに違いない。そのおかげで失敗作を捨てるという勿体無いことはしないで済んだ。本来一般的な厨房なら、失敗作などすぐに芥箱(=ごみばこ)行きだろう、しかしシェフ(=いわ)くあまり芥の量は増やしたくはないらしい。となると、彼等が太ってしまった原因には普通とは逆の、そういった理由があるのかも知れない。だがあそこまで太ってしまっては、やはり食べ過ぎが何よりの要因だろう。

 どちらにせよ、そんな他所とは全く違うまったりとした雰囲気の厨房は、アルカンにとって非常に居心地が良い場所であった。おかげで彼も周りに影響されてか、次第に体が(=ふく)よかになり始めていた。

 

 三週間後、アルカンがここ<ビート>に来ておよそ一月経った日だ。

「アルカンさん、明日からボスが一ヶ月間出張するらしいですよ」

「出張?」

「ええ。ボスは度々外部と――勿論裏組織とですが、交渉をするんです」

「……あいつ、結構顔が広いんですね、裏世界での話ですが」

「そうらしいですね。それでまあ、今日の朝食、昼食、夕食は豪華絢爛にとの命令が来ています。なので今日の料理は今まで以上の量を作らなくてはなりません。だから一人一人、僕を含めて忙しくなるので、あなたには今日一日独りで料理を作って貰います。但しあなたが作る料理は、僕達が作るようなパーティー用のものではなく、個人的なボスへの料理となります」

「私が、ビルミートに料理を作るってことですか?」

「はい。それもボスからの命令でして――ただ一品だけで良いそうです。量も普通で、どうやらボスはあなたの力量を確かめたいようです」

「なるほど……分かりました、何とか頑張ります」

「もし良かったら、少しだけでも手伝いましょうか?」

「いや、大丈夫です。そっちの方が都合が良いですから」

 シェフは思わず首を傾げたが、アルカンは「気にしないで下さい」と言った。彼は、(=ようや)く機会が来たのだと悟った。あのおでん屋の店主である老鼠から貰った薬を、とうとう試せるのだ。もし老鼠が言った通り三大欲求を増幅させる効果があるのなら、確実にビルミートは食欲を亢進(=こうしん)させるに違いない。

 アルカンは、今ではかなり手馴れた手付きで料理を作り始めた。そして自分の十八番(=おはこ)の料理を拵えると、一旦厨房を出て自室へと向かい、そこから持って来た例の薬を、言われた通りの茶匙一杯分その料理の中に入れた。

(ふん、ビルミートの奴め。これからどうなるか楽しみだ)

 自然とアルカンは、薄ら笑いを浮かべていた。

 

「先程、ボスが出発したようですね」

「それじゃあシェフ、これから一ヶ月間は結構平和になりそうですね」

「まあそうだね」

「……それにしてもシェフ、ビルミートがいない間一体誰がここを仕切るんです?」

「それはボスの彼女さ。確か名前はリタだったかな、雌海豚のね」

「――! り、今、リタって言いませんでした?」

「ええ、言いましたよ」

 アルカンはまさかと思った。雌海豚のリタと言えば、同じ税務課にいた職員じゃないか。そんな、つまりそれは、彼女がスパイだったというわけか? 確かにそれなら納得出来るものもあるが……

 と、アルカンはここで考えるのを止めにした。彼はもう二度と税務課には戻れない、そんな過去のことを考えたってしょうがないのだ。今彼に必要なのは、前向きにここで楽しく過ごせるよう勤しむこと。何せこの裏組織<ビート>から、一生外へは出られないのだから。

 

 

 

 あれから一ヶ月経った。鯱のアルカンがこの<ビート>に入ってからだともう二ヶ月目になるが、初日に鯨のビルミートに殴られて以来、彼はその鯨ことここのボスの姿を一度も見ていなかった。ビルミートは基本自室にいるか港湾部を見回るだけ、アルカンはアルカンで自室と厨房を行ったり来たりするだけ。互いの軌跡には一切交差する部分はなく、また料理をビルミートの部屋へ運ぶ際は彼の手下がサービスワゴンで運んで行くため、出会うことは完全になかった。しかしそれはアルカンにとって非常に嬉しいことで、厨房のやんわりした雰囲気で一日を終えられるのは、例えこの<ビート>という監獄にいても凄く幸せだった。

 そして今日も、アルカンは厨房で平和裏に仕事をこなしていた。しかし今日はビルミートが帰還するということで、恐らく開かれるであろう祝賀会のために、彼は食材などの下準備をしていた。その時同僚の雄鮫がやって来て、彼に話しかけた。

「なぁアルカン、どうやらさっきボスが戻って来たらしいぜ」

「もうなのか? それじゃあ昼から忙しくなりそうだな」

「ああ。それと聞いた話じゃボス、かなり凄いことになってるらしいぜ?」

「凄いこと?」

「ああ。何でもどっぷりと太って来たらしいぞ」

 それを聞いた瞬間、アルカンは心内で歓喜に湧いた。なるほどあの薬は、どうやら本物だったようだな。

 しかし、そう考えるのはやや時期尚早だった。

「でもまっ、仕方がないかもな」その鮫の言葉に、アルカンは思わず問い(=ただ)した。

「仕方ない?」

「今回ボスが訪れたのは、アサイリーマっていう国なんだ。あそこはお国柄、肥満に対する懸念が無いんだ。それにカロリーは値段に反比例し、安価な物程高カロリーなんだ。しかも元々がたいが大きな種族達の国だから、そりゃあもうみんな大食で。

 そんで俺、実は一度そこにホームステイしたことがあるんだが、一年で体重が何と五十キロも増えちまったんだ。そりゃもう帰還した時には周りに『誰?』って聞かれたさ。十方(=じっぽう)一般に売られてる服も全然着れなくて、あの時はマジでダイエットしたなぁ。でも見ての通り、今じゃ完全にリバウンドしちまってるけどな」

「ははは。ていうか寧ろ、余計に太ったんじゃないのか?」

「そうかも知れないな。そっちもそっちで、来た当初に比べてかなり太ったよな」

「まあ、な」

 コックコートが張る程出た腹を、アルカンは軽く(=さす)った。周りとサイズが違うというのもあるが、このコックコートがきつくなり始めたということは、少なからず太ったというこだ。

「……それにしてもアサイリーマ、そんな凄い国があったとはな」と言いつつ、実は裏でアルカンは肩を落としていた。

「やっぱ世界は広いってことよ。だから俺にとっちゃ、ボスが太っても決しておかしくはないんだ。けどなぁ……」

「けど、なんだ?」

「ボスは僅かながらにでも、ちゃんと体には気を遣ってるんだ。考えても見ろよ、もしあの食欲で運動とかしてなかったら、今頃ボスはぶっくぶくになって(=もが)いてるところだぞ?」

 確かに、とでも言うようにアルカンは頷いた。

「普段は確か、凶器である尾鰭を重点的に鍛えてるはずなんだが、今はどうなんだろうな。ボスにしては珍事だ」

 アルカンの感情が、起伏激しく再び動いた。それでは少なからず、あの薬が効いたということなのだろうか。とりあえずまだ確信は出来ないが、あの薬にはどうやら価値がありそうだ。よし、それなら今日の祝賀会の時に奴専用の特盛り料理を拵え、そこにあの薬を浸み込ませてやろう。これからずっとあの薬を投与し続けることが出来るから、果たしてどうなることやら……とアルカンは凝念(=ぎょうねん)した。

 

 ビルミートが帰還したのは正午一時間前だった。なので厨房はてんやわんやし、出来る限りの即席で作れるパーティー用料理を、沖巨頭のシェフが即行で絞り出した。そして今ではすっかり厨房の一員となったアルカンは、同僚達やシェフと共に手早く調理を始めた。途中アルカンは、ビルミート専用の料理に例の薬を混ぜ込んだ。幸運にも薬は、無色の液体なので怪しまれることはなかった。

 それから、全ての料理を作り終えた時だった。運が良いのか悪いのか、祝賀会に厨房のシェフやスタッフ達も総出で参加することになった。勿論それはビルミートからの命令故、断りは金輪際許されない。仕方なく厨房の人達は、ビルミートの手下達共に料理を載せたサービスワゴンを押して、会場である彼の部屋へと向かった。

 ビルミートの部屋は、リーラの裏通りからこの<ビート>に通じる隠し扉の先の通路にあり、更にその先にはエレベーターと階段があって、アルカン達はそこのエレベーターを使って移動していた。嬉しいことにそのエレベーターは、ビルミートでも優に入れるよう設計されていたため、全員がサービスワゴンを押していても一度に乗ることが出来た。それから彼等はエレベーターを降り、廊下をビルミートの部屋へと進んだ。するとアルカンの心臓が、急にドキリとし始めた。そういえばビルミートと最後に対面したのは、彼がここに来た当初――即ち二ヶ月前だった。しかもその時は殴打されるという仕打ちを受け、正に最悪の時だった。

 あれから二ヶ月、アルカンは再び殴られるのではないかと、鬼々(=おにおに)しさが膠着しているビルミートを恐れ始めた。だがそれから逃げることは出来ず、目の前にはもう彼の部屋へと通じる扉があった。アルカンは震えそうになる手に力を込め、シェフが扉を開けるのをせわしなく待った。そして扉が開くと、皆と一緒にサービスワゴンを押しながらビルミートの部屋の中へと入って行った。

 その瞬間、アルカンの震えは完全に止まった。中はなんと、暗めながらもミラーボールから(=あふ)れたスポットライトが辺りを照らし、バックにはテクノ系統の音楽が大音量で流れる、言わばクラブハウスのような状態になっていた。そして均等に並べられた特注の長テーブルには、既に幾つかの豪勢な料理が載せられており、そこに多くのビルミートの手下達が群がっていた。そして一番右側のテーブルには未だ料理が載っておらず、どうやら今持って来た料理は、全てそこに並べるようだった。

 アルカン達は、まだ何もないテーブルの上に料理を並べ始めた。するとその時、ビルミートがマイクを介して喋り出し、辺りは一斉に静まり返った。

「おい手下ども! どうやら厨房の奴等も来たようだ、これで全員が揃ったぞ」

 どうやらビルミートは、いつもの安楽椅子に座っているようだ。しかし室内が暗いせいで、彼の容姿が(=ほとん)ど窺えなかった。

「実は全員に重大な報告がある。俺は少し前までアサイリーマにいた。そしてそこの同業者達と交渉を交わした結果、何と俺達に莫大な金が入って来た。その額は半端じゃないぞ、ここにいる全員が一生暮らせるかも知れない程だ。

 これからも仕事は通常通りやって貰うが、もはや金銭面に囚われる必要がないため、今日からは全員残業など一切無しだ。もう無駄に働く必要も、金に悩む必要もない!」

『おー! ボス、万歳!』

 BGMに負けない合唱に、アルカンは如何にビルミートが崇拝され、信頼されているのかを改めて実感した。

「よしお前等、まずは一回目の豪勢なパーティーだ、確りと堪能しておけ!」

 全員一斉に『はい!』と掛け声を上げ、手下達は再び料理に手を付け始めた。その食いっぷりにアルカンは、もし彼等に薬を使ったら一体どうなるのかと好奇心が湧いた。しかし薬は重宝すべき物なので、無駄に使うのは愚行だった。

 そんなことを考えていると、手下の一人がアルカンに近付き、声をかけた。

「アルカン、ボスがお呼びだ」

「私か?」

「ああ、早く来るんだ」

 アルカンは手下に連れられて、ビルミートの近くまで来た。すると、(=ようや)くビルミートの全体像が確認出来、そしてその立派になった体に思わず吹き出しそうになった。それもそのはず、前のビルミートは腹がドンっと出ており、全体的にむっちり気味な体型だったが、それは鯨の特質であり筋肉なども兼ね備えていた。しかし今のビルミートは、全体が見事に(=たる)んでいた。顔はぷくぷくと膨れ、二の腕はむっちりでもがっしりでもない、ぶよっとした感じになっていた。腹に至っては、ファミコン腹のように丸かったのが、今では膨らみ過ぎてその形状を維持出来ず、少し前へと迫り出す感じで垂れ下がっていた。そして最後に、何と言っても尾鰭のことだが、これまたかなり図太くなっており、全体的に膨らんだせいか少し短くなっているように見えた。しかしビルミートがそのぶっとい尾鰭を、安楽椅子に座りながらゆっくりと動かしている様を見ると、寧ろ尾鰭だけはより強悍(=きょうかん)になっているようだった。

「久しぶりだな、アルカン」

「あ、あぁ、久しぶりだな」

「お前、確りと仕事をこなしてるようじゃないか」

「まあ、な」

「それと、まだまだ俺には程遠いが、随分と体が立派になったじゃないか」

 そう言ってビルミートは、痩身な肉体がふっくらとしたアルカンの体を、上から下まで眺め回した。

「俺としては、お前の存在が外部に漏れなければそれでいい。そしてお前が厨房で上手くやれているのなら、そのままの調子で頑張れ、それがお前にとって最善の道だろう」

「ああ、分かった」

「話はそれだけだ、もう行っていいぞ。それとこの料理はお前が作ったんだってな、中々美味いじゃないか」

「それはどうも」

 アルカンは頭を下げ、その場を去った。その時の彼の脳裏では、くすくすと笑いながら薬の効果を確信しようとしていた。幾らビルミートがアサイリーマという国の土地柄で太ったとはいえ、たったの一ヶ月でこれ程まで変化してしまうのはどう考えてもおかしかった。アルカンは新たな楽しみを見つけ、心が躍り始めた。

 

 それからアルカンは、ビルミート用の料理には必ず、あの老鼠から貰った例の液体薬を入れた。そしてその料理を食べたビルミートは、日に日にその食欲をより厖大(=ぼうだい)なものへとしていった。その結果、隔週ごとに変化が分かる程体が肥えて行き、たちまちその異変が周囲に広まった。アルカンは厨房で仕事をし、ビルミートは基本自室に(=こも)っているため、アルカンは肉眼でその変化を拝むことは出来なかった。しかし「ボスがまた太った」という噂を聞く度、彼は心の底で大きく笑うのだった。

 次第に、ビルミートの手下達は彼に危懼(=きく)感を抱き始めた。気が付けば薬もあと四分の一を切っており、アルカンは「そろそろシメに行くか」と、自室で不気味に微笑みながら企図した。

 

 

 

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