著者 :fim-Delta
作成日 :2008/09/07
第一完成日:2008/09/10
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雄鯱のアルカンは、おでん屋台の店主である老鼠にこう答えた。
「出来ることなら私は、あの鯨を喰い殺してやりたい」
「ほほう、相当憎く思ってるようじゃな」
「本当はずっとあいつにムカついてたんだ。あんな奴、いっそ死んじまえば良いんだ」
「なら、そうしてやれば良かろう?」
「なんだって?」
「じゃから、喰い殺してやればいいんじゃ」
「……それ、マジで言ってるか?」
「
儂 はしたいことをすれば良い、それを言ったまでじゃよ」「しかし、そんなのは不可能だ」
「何故じゃ?」
「相手は鯨、しかも普通の鯨よりも断然体が大きい。それに比べて私は鯱なのに、こんなに貧弱で、奴と対等に分かち合えるわけがない」
「儂は、そうは思わんがの」
「どうしてだ?」
「お客さんは自分を鯱じゃと
仰 った。鯱は英語でなんと言うか知っておるか?」「
オルカ 、だろ。今のは冗談のつもりか?」「ほっほっほ、まあ気にするでない。実は鯱には、もう一つ別の言い方があるんじゃよ」
「別の言い方だって? 私はその“オルカ”しか知らないぞ」
「そうか。それではその答えはなんじゃが……それは
キラー ホエール じゃ」「キラーホエール――まさか、鯨殺しっていう意味なのか!?」
「その通りじゃ。鯱の英名でもう一つはキラーホエール、即ち鯨の殺し屋っていうことなんじゃよ」
「そ、そうだったのか……それは初めて知ったな。だがそれとこれとは、一体何の関係がある?」
「その名の通り、お客さんは鯨を殺すことが出来るんじゃよ」
「さっき言っただろ、体格差があり過ぎるんだ」
「確かにそうじゃな。じゃがもしお客さんがその鯨に近い体型であれば、きっと勝てるぞい」
「ふん、仮にそうなったとしても問題は、私には殴り合う技術など微塵もない」
「どうやらお客さんは、先入観に囚われているようじゃな」
「先入観だって?」
「そうじゃ。お客さんは実際は強い、しかしそのことを疑心暗鬼し、自らの力を引き出せないでおるのじゃ」
「私は自身の力に疑問など抱いていない。明白なことで当然だと思っているだけだ」
「じゃがお客さんは、先程言った通り鯨殺しの名を持つんじゃ。生まれながらにして、それに対抗出来る闘争本能はあるはずじゃよ」
「……そうだったら、良かったんだけどな」
アルカンが沈みながらそう言うと、老鼠は屋台の下で何やらごそごそやりだした。するとそこから、錠剤が入った一本の硝子瓶を取り出し、そしてそれをアルカンに差し出して来た。一見すると普通の錠剤だ。
「これは心に掛けられた
枷 を外す薬じゃ。これを飲むことでお客さんは、次第に自らの能力に目覚める」「……なんか凄く
胡散臭 いな。それは何か、トランキライザー的なものなのか?」「いいや違う。じゃがまあ、説明しても分からんじゃろうからそう思って貰っても構わん。兎に角この薬は、お客さんの力を呼び覚ますんじゃ」
「まさか、飲んだら死ぬとかはないよな?」
「勿論じゃよ」
「副作用は?」
「ない、じゃが必ず食後に一錠じゃ。まあ兎に角受け取りなさい」
ほぼ無理矢理にだが、アルカンは老鼠から硝子瓶を受け取った。彼は訝しげにその中に入っている錠剤を見つめたが、思えばこれからの人生がどうなるのかは皆目見当も付かない。仮にこの薬を飲んで死んだとしても、悔いが残らないに違いない。そう考えたアルカンは、その硝子瓶を
懐 にしまった。「ありがとな、爺さん。それじゃあ遅くなったが、大根と卵を頼む。あとがんもに薩摩揚げを」
「ほいな」
時間制限があったため、アルカンはたっぷりとおでん屋で食事を堪能出来たわけではないが、決して不満足ではなかった。酒はこれからのことを考えて一滴も飲まなかったが、最後の晩餐にしては至福に事足りていた。
「美味かったぞ爺さん。私はもう行かなくてはならないから、これで失礼させて貰うよ」
「もうか? そりゃ
淋 しくなるのぉ……」「だが最後の晩餐にしては、充分堪能させて貰ったよ、ありがとう」
そう言ってアルカンは席を立ち、屋台を離れようとした。
「……爺さん、どうせ最後なんだから、名前だけでも教えてくれないか?」
「儂のか? 儂はインラージャという名じゃ」
「
インラージャ ――大きくする者、って意味だな。はは、本当に私の体を大きくしてくれたら最高なんだがな」と、アルカンは笑いながら言った。そして彼は屋台と老鼠ことインラージャに背を向けると、霧の奥へと進み始めた。「私の名前はアルカンだ、爺さん」
そして彼は、霧深い裏通りへと消えて行った。その後姿をインラージャは、ゆっくりと頷きながら見送った。その行動は、彼の言葉に対する了承なのか、それとも既知であることの証明にも見えた。
あれから一ヶ月、鯱のアルカンは裏組織<ビート>に仲間入りしており、今そこのボスの雄鯨、幼馴染みで親友だったビルミートに
焼 を入れられていた。「くっ……」
「ほらほら何か言って見ろよ、このへたれ鯱が!」
その言葉と共にビルミートは、
蹲 るアルカンに尾鰭の一撃を加えた。その重々しい一打は、アルカンを軽々と吹っ飛ばした。これでもビルミートはかなりの手加減をしており、もしも本気の一発を喰らったのなら、肋 などシャーペンの芯の如く簡単に折られることだろう――そしてその連鎖反応で内臓破裂の即死だ。「全く、お前を助けてやったのは一体誰なんだ? 折角ここに
匿 ってやってるんだぞ、少しはちゃんと仕事出来ねぇのか?」アルカンは片方の拳を握り締め、無言を呈した。それに対しビルミートは鼻息を漏らすと、手下達を呼び集めた。
「おい手下ども! 今日から俺は
暫 く船で遠くへと行ってくる。なあにいつもの密売さ、一月程度で戻る。その間は俺の彼女、リタがここを取り仕切るからな。もし彼女に何か遭って見ろ、すぐには死なせねぇ。磔刑 でじっくりと甚振 り殺してやるぞ」そしてビルミートは指を鳴らした。すると彼が座る安楽椅子の後ろから、一人の雌海豚が出て来た。その顔を見た瞬間、アルカンは思わず凍り付いた。
「ハーイ、みんな。わたしはリタ、宜しくね。それとここにいるみんなの中で、たった一人だけわたしのことを知ってる人がいるわね」
彼女は前に進み出ると、目の前で倒れているアルカンに声を掛けた。
「
吃驚 した?」「リ、リタ……な、何故だ……」
「何故ってわたし、ビルミートの将来の妻ですもの」
アルカンは目を
瞠 った。「わたしはビルミートに言われて、あなたを見張ってたのよ。ふふ、つい最近までは調子が良かったのに、一気に落ちたわね――この
下種 野郎!」リタは倒れているアルカンに、強烈な一蹴りを浴びせた。それが決定打となり、アルカンはパタリと意識を失った。
「あら、鯱の癖に軟弱なのね、雌の海豚のわたしに負けるなんて」と彼女は高らかに笑い、それに続いてビルミートも盛大な笑いを披露した。それに合わせ、手下達も大いに笑った。
アルカンはふと目が覚め、そして自分が牢屋にいることを知った。何故牢屋に入れられているのかは分からないが、頼りにされてないのは自覚していた。とりあえず彼は辺りを見回したが、誰も居ず、目の前の鉄格子の端にボタンが括り付けられているだけだった。そのボタンが何のためにあるのか、押すべきものか、彼は暫時悩んだ。しかしその時「こつ、こつ」と石畳の階段を降りる音が聞こえて来たので、彼は鉄格子から音がする右側の方に目を遣った。すると奥の方に階段があり、そこからゆっくりとあの海豚、リタが降りて来た。
「あら、目覚めてたのね」
「おい、これはどういうことなんだ?」
「どうもこうも、ビルミートの話じゃあんた、使い物にならないって話だわ」
「それじゃずっと、私はここに居るのか?」
「いいえ。ビルミートはどうやらあなたが好きらしいの、だからいつも外に出してくれてるのよ。だけどわたしは違う、不要な存在は徹底的に排除するわ」
「……殺すのか?」
「まさか。今言ったばかりでしょ、ビルミートがあなたのことを好んでるって。だから殺さないわ。ただビルミートが帰って来るまで、あんたにはわたしの視界から消えて貰う、それだけよ」
そう言って彼女は階段の方へと戻り始めた。と、途中で何か思い出したのか、彼女は後ろを向いたまま彼にこう教えた。
「鉄格子の端にあるボタンだけど、それは食事を運んでくれるボタンよ。いつでも好きな時に食べなさい。もしあなたが今後この<ビート>で生き長らえたいのなら、少しは体作りをしておくことね」
そして彼女は階段を上り、姿を消した。アルカンはどうすることも出来ず、とりあえず後ろに下がって近くの壁に背を
凭 れた。はてさてこれからどうするべきか。一ヶ月以上もこの空間にいるなんて、気が滅入るに違いない。ここは彼女の言う通り、適度な運動と食事で体を鍛えた方が良いかも知れない。例えこの<ビート>から逃げ
遂 せても、確実にビルミートの手下達に殺されてしまう。それならこの場に留まり、<ビート>で暮らせるよう港湾労働者的な丈夫な体を作って――それこそビルミートのように体を大きくするのが、今のアルカンにとって最善の道なのかも知れない。「大きく……か」
アルカンはふと、あのおでん屋の店主である老鼠、インラージャのことを思い出した。そういえばあの爺さんから、何か薬を貰ったっけと。それは自らの心の枷を取り外し、鯱である彼には
キラーホエール の名に相応しい潜在能力を引き出すと言っていたが、あれは本当なのだろうか。そんなことを考えていた彼だったが、この切羽詰った状況では何か出来るわけもなく、薬を試して見るのも悪くはなかった。そこで彼は、懐にそれをしまったのを思い出すと、常備していて良かったと感じながら硝子瓶を取り出した。
「おっと、まず先に食事をしないとな」
アルカンは
徐 に立ち上がり、鉄格子に掛かっているボタンを押した。すると突如左側の壁の一部が開き、そこから「ザー」という滑る音と共に、幾つかの食べ物が流れて出て来た。生肉、野菜、パン――とりあえずはある程度のバランスを考えてはくれているようだ。更に良く壁を調べて見ると、食べ物の受渡口である壁の隣に、金属の蛇口のような物が取り付いていた。彼はその上にある取っ手を回すと、金属の先から水が流れ出るのを確認した。水分はどうやら、これで補給しろということらしい。それから彼は、出て来たパンを食べながら生肉にかぶり付き、間に野菜を挟みながら食事を取った。所々で水を飲み、そしてとうとう完食した時には、彼のお腹は見事に膨れていた。さすが港湾労働者の食事量、食が細めなアルカンにとってはかなりきつい量だったようだ。彼は張ったお腹を優しく摩り、少し胃を落ち着かせた。そして彼はここで、例の錠剤を飲むことにした。老鼠のインラージャに教えられた通り、彼は硝子瓶から一錠の錠剤を手にすると、それを口に含んで蛇口からの水で飲み下した。これで、あのインラージャが言っていた通りに――若しくはその名前のように――彼は大きくなれるのだろうか。
常時薄暗い地下牢には、誰一人としてやって来なかった。そんな中で気が滅入りそうになるのを堪え、アルカンはそれなりに運動をすることで気を紛らわしていた。そんな中、半月程過ぎた頃に彼はとあることに気が付いた。それは今着ている服が少々きつい……いや、空気を吸って思い切りお腹を膨らませれば、ボタンを飛ばすことが出来そうな程きつかった。それを知った彼は、じっくりと自分の体を眺め回した。見慣れているものの変化には気付きにくいものだが、彼は自身の腕や脚が以前よりも太くなっていることを確認した。運動をしているおかげでそれなりに筋肉も付いていたが、何よりも脂肪がたっぷりと身に付いていた。そういえば今では、ボタンを押した時に出てくる食事の量も丁度良くなっていた――が、それだけでこれ程にも急に体型が変わるものだろうか。
するとここで、彼は食後儀式的に服用していた、あの硝子瓶に入った錠剤のことを思い出した。同時に、彼はその真価を今正に受け止めようとしていた。あのおでん屋の店主である老人ことインラージャが言っていたこと、あれは冗談ではなかったのか。そして彼は、それを確信へと近付けるべく、残りの半月も様子を窺うことにした。そして少し、食事にも無理を強いて見ることにした。
ここ裏組織<ビート>のボスである鯨、ビルミートの彼女である海豚のリタは、鯱ことアルカンの
惨 めな姿を楽しみに階段を下りていた。今日はビルミートが帰還する日、だから彼の好きなアルカンを牢屋から出さなければならないのだ。「アルカン、ようやく外に出られるわね」
そう言いながら彼女は、牢屋にいるアルカンを見つめた。刹那彼女は、一瞬彼の存在を疑った。
「……アルカン、よね?」
「ああ、そうだが?」
見るとアルカンは、あの細い貧弱な体から打って変わり、一般の鯱を越え完璧なるずんぐり体型になっていた。腕や脚は勿論のこと、尾鰭までもが立派に太くなっていた。しかし何よりも変わったのは腹周りで、まるで体内から風船を膨らましたかのように、彼の腹は見事な半球形をえがいていた。全身を見る限りでは、以前とは違い遥かに強靭な容姿だった。
「あんた、一体どうしたのよ。まさか本当に運動とかでもしてたの?」
「まぁな。昔の私は鯱としてなっていなかったからな」
「そ、そう……。そういえば今日はあんたの釈放日よ、ほら出て」
そう言って彼女は、鉄格子に掛けられた南京錠を外した。そして扉を開けてアルカンを牢屋から出したのだが、ここに入った時は易々と通れたのに、今の彼では幅がぴったしだった。それは如何にアルカンが体を大きくしたのかを示しており、そのことにリタは大きく動揺した。一方本人は、自らの体を更に実感出来て悦に入り、改めてあのおでん屋の老鼠に感謝した。今では彼は、あのボタンを一食で二回も押せる程の食欲になり、しかし錠剤はまだあと半分以上も残っていることから、今後彼がもっと肥壮な体型になれることを期待させた。
リタは先鋒を務め、アルカンとビルミートが待機する彼の部屋へと連れ立った。この間すれ違った彼の手下達は、誰もが一度目を疑い、アルカンという人物を確かめた。その視線はアルカンに、更なる自信を溢れさせた。もしかしたらもう、ビルミートに勝てるのではと過信してしまう程だった。だがそれは時期尚早だと、さすがの彼も自覚していた。もしあの老鼠ことインラージャの話が正しければ、彼はビルミートに近い体型にならなくては勝利することは出来ない。鯨の一般的な体型にさえまだ達していない彼は、それにプラスアルファで付いた脂肪などを持つビルミートを越えるため、今のペースだとあと一ヶ月程の
リードタイム が必要だった。だがその時のことを考えると、彼は例えビルミートに拷問されようとも、それに耐えられる自信があった。リタとアルカンは、ビルミートの部屋の前まで来た。その両脇で待機する手下達に「ボスがお戻りです」との言葉を受けると、リタは扉を開け、アルカンを連れ中へと入った。
「ビルミート、アルカンを連れて来たわ」
「ありがとなリタ、もう下がっていいぞ」
リタは軽く会釈すると、扉を後ろ手に閉め去って行った。そして部屋に残ったアルカンと面を合わせるため、ビルミートは安楽椅子を回転させ彼と向かい合った。その時一瞬、ビルミートは片眉を吊り上げた。彼もまた手下達やリタ同様、アルカンの変化に目を疑ったのだ。
「……アルカン、か。たったの一ヶ月で随分と体を作り上げたな」
「まぁな」
「だが幾ら体を大きくしようが、お前の扱いは変わらないからな」
アルカンは頷いた。その動きには以前と比べ、確かな堅固さが窺えた。
ビルミートも、一月の旅の間に随分太ったなと彼は思った。だが
寧 ろ目標が高くなったことで彼はより一層意気込み、心裏で鼻息を鳴らすと彼は、独り笑った。
それからというもの、別段大きなミスをすることもなくアルカンは、この裏組織<ビート>での仕事を順調にこなしていた。基本的には表向きの港湾労働をし、沖中氏や沖荷役と同じ現場で働いているが、指名手配中である故外部との接触が許されず、かなり仕事をする場所が限られていた。それなのに前は力すら無く、狭い単純な作業にも失敗を繰り返して来たが、今では全てが余裕綽々だった。そんな彼は仕事を終えると、同僚達と同じか若しくはそれ以上の量の食事を平らげ、周りを更に驚かせていた。元々港湾労働は派遣が禁止されている程の重労働故、その仕事量相応の食事を取る必要がある。それは一般の人達よりもかなり多く、だからここで働くビルミートの手下達は全員がたいが非常に良いのだ。そしてアルカンはそんな彼等を上回り始め、牢屋の中での一ヶ月間を相当努力したのだと周りから目視され、アルカンは徐々に見直され始めた。それもこれも全ては薬のおかげだと彼は
疾 うに悟っていたが、勿論そのことは内密にし、周囲からの注目による快楽を味わった。そして、アルカンが牢屋を出て一ヶ月が経った今、彼の体は昔より優に三倍以上は大きくなり、巨大ジャンボボール――運動会の大玉転がしで使われる玉の小さい奴――のようになった腹は今や垂れ下がっていた。だが全体的に筋肉量も増えたせいか、単なる脂肪太りには見えず、正にビルミート風の体格になっていた。
その後も彼は、首尾良く事が運ぶかに見えた。しかしある日、手下の一人が機密兵器の部品を壊していまい、
偶々 そこに居合わせたアルカンがとばっちりを受ける破目になった。今回の作業は非常に重要な契約先のものだったため、ビルミートの憤怒 はいつも以上だった。まず手始めに主因の手下を、彼は残酷にも磔殺 にした。その手下の最期は、阿鼻叫喚と共にビルミートが放った尾鰭からの本気の一撃で、張り付けた壁諸共その手下の死体が崩れ落ちた。「さて……それではアルカン、お前の処遇についても述べよう」
「頼む、ビルミート、私は何もしていない!」
「だがお前はあいつを
庇 おうとした。その精神、この<ビート>に反する」アルカンはごくりと、生唾を呑み込んだ。
「お前は親友で、幼馴染みだった。しかし今は違う、今は“俺”の手下だ。だがまあ、お前の努力を水の泡するのは非常にもったいない、寧ろ自らを鍛えて来たその体は称賛に値する」
そう言ってビルミートは、硬直して立つアルカンの面前にゆっくりと歩み寄った。ビルミートの巨躯が更に大きくなり、幾らアルカンが体を数倍大きくしようとも、対比すると未だ“もやしっ子”の範疇だった。その時、ビルミートが唐突にアルカンの片手を握った。そしてそれを軽く
捻 ると、途端にミシっという音とアルカンの痛烈な叫びが連続して上がった。「しかしだ、どんなに体を鍛えようとも、所詮俺には勝てない。軽く
拗 っただけで罅 が入るとは、本気を出したら複雑骨折どころじゃ済まないだろうな」と言い、ビルミートはアルカンの手を離した。透かさずアルカンはもう片方の手を器にすると、その負傷した手首を確りと支えた。「今回はこれで勘弁してやる、とっとと部屋から失せろ」
身を
翻 したビルミートは、元の安楽椅子に戻って勢い良く凭れた。アルカンは罅が入った手首を押さえながら、静かに部屋を出た。その時の、以前よりも立派になった彼の尾鰭の動きには、また一層哀愁が漂っていた。
自室に戻ったアルカンは、未だに痛む手首を
摩 りながらビルミートを罵った。「クソ、あの野郎、調子に乗りやがって……」
そこで彼は、洗面所の吊り戸棚からあの硝子瓶を取り出した。中にはまだ十粒程錠剤が残っており、彼はそれをまじまじと見つめ、静かにこう呟いた。
「私は、私はもう我慢出来ない。あの糞野郎は幼馴染みでも、親友でも、命の恩人でもない。私が今まで受けていたのは、あんなにも屈辱的なものだったのかと今更ながら分かったよ、爺さん。あんたは本当に、何でも分かってるような不思議な存在だったな。インラージャというその名前の如く、私の体をここまで立派にしてくれ、あんたの助言が今では身に
沁 みて感じられるよ」アルカンは、硝子瓶の
蓋 をゆっくりと開けた。それから彼は軽く深呼吸をすると、残り錠剤をなんと全部一気に口の中へと放り込んだ。そして蛇口からの水をコップに汲むと、彼は含んだ錠剤を水共々一気に胃へと流し込んだ。「ふぅー……あと僅かだ、あと僅かな時間で私はビルミートを越える巨漢になり、そしてその時には奴を、種族の名に恥じぬよう喰い殺してやる!」