著者 :fim-Delta
作成日 :2009/01/17
第一完成日:2009/02/06
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俳優の犬族の青年は、事務所に入ってまだ一年の新人だ。下積みをし、脇役の中の脇役というもどかしい役柄で経験を積み重ねて来た彼も、そろそろ我慢の限界が来ていた。一年もやれば、一つぐらい良い脇役の依頼が来てもいいのではと、彼は事務所に対して陰口を叩いていた。
そんな彼に、新たな仕事が舞い込んで来た。そろそろちゃんとした役が来たかなと、彼は心を躍らせた。
「ゴードン、新しい仕事を頼みたいんだが」と社長。ここは小さな会社故、社長直々言葉がやってくるのだ。
「はい。で、どんな役柄でしょうか?」と静かに心を弾ませる犬族ことゴードン。
「悪役の手下で、裏切った代償に崖から落とされる役だ。安心しろ、安全ロープは確りと付ける」
「……落とされる、だけですか?」
「ああ。出演時間は数分ってところだ」
「ちょっと待って下さい。そろそろ俺にも、もうちょっとマシな役とかやらせて貰えないんですか?」
「なんだね、折角の仕事に文句を付けるのか」
「俺はもう一年も経験を積んでるんですよ。少しは役柄に変化が起きてもいいと思います」
「それはつまり、今回の仕事は引き受けない、そう言いたいのか?」
「勿論です。こんな野暮な仕事ばかりやってられません」
「そうか、君はもう少し根がある奴だと思っていたんだが」
「五分や十分にすら満たない出演を一年も続けてたら、誰だってそうなります」
「昔はな、十年や二十年下積みを重ね、ようやく脇役へと
伸 し上がったものだ。今の若者達は、どうも忍耐力がなさ過ぎる」「いえ、その頃がおかし過ぎなんですよ。俺には実力があります。これまでにNGを出した事は、素人時の数回だけなんですよ。それ以来、一度もそんなヘマをした事はありません」
彼の反論に、社長は
徐 に椅子の上で体勢を整えると、こう告げた。「君は、クビだ」
突然の社長の言葉に、ゴードンは拍子抜けした。
「えっ……と、その、それはどういう意味で?」
「そのままの意味だ。君はクビだよ、クビ。そんなに不平を鳴らすような奴は、ここにはいらん」
「な――何故です、社長!?」
「いいかね。今のこの世の中には、君よりも安くて評判の良い仕事用ロボットがいる。彼らに仕事を頼む方が、この小さな会社にとっては有意義なのだよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。確かに今、そのロボットは人気かも知れません。しかし俺は生の
人 なんですよ? そんじょそこらのロボットとはわけが違います」「それじゃあ聞くが、君はロボットと同じ条件下――崖から安全ロープ無しに、ダンボールが少し敷かれた地面に落ちる事は出来るかね? それも、五十メートルはあろう高い崖から?」
社長の問いに、ゴードンは思わず言葉を詰まらせた。そんな所から落ちたら、幾らダンボールが敷かれていようと、落下速度を完全に吸収し切れず、生身の人ではペシャンコになってしまう。ただ……ただそれが、あのロボットには可能だ。
「よし、それじゃあ賭けをしよう。君にはそのスタントをやって貰い、もし出来たら、君を未来永劫この会社で雇ってやろう。仕事は自由に選べ、仮に仕事が来なくとも、毎月最低百万の給料を支払う。正に素晴らしい条件じゃないか。まっ、人である君には到底不可能な事だと思うがな、はははは!」
社長の言葉に火が点いたのか、ゴードンはキリっと歯軋りをして顔を歪めると、その提案を引き受けてしまった。
気が付くと、ゴードンは高い崖の上に立っていた。風が吹き付ける中、腰周りには安全ロープの一つも無い。そして崖の下には、衝撃吸収用のダンボールが数段積み重ねられただけの安全地帯が小さく設けられ、あとはただ剥き出しの地面だけが広がっていた。しかも、ロボットならともかく、風速や落下地点の緻密な計算が出来ない彼には、まともにその地帯へ落下出来る保障はなかった。
「ゴードン、どうした、早くしないか」と、監督のそばにいた社長が畳み掛けて来た。ゴードンは、ちらりと撮影用のカメラを見ると、そこには赤いランプが点っており、既に撮影が始まっている事を示していた。更に周囲を見渡すと、役者達は台詞を言い終えたのか、彼が行動を起こすのをじっと見守っていた。
彼は再び、眼下にぽつんと映る小さな安全地帯に焦点を合わせた。恐怖のあまりに
眩暈 がし始め、足は竦み、例え安全地帯に上手く落ちても確実に死ぬという絶対的事実と、しかしこれをしなくては事務所に残れないという窮迫感との硲 に、彼は今立たされていた。溜め息を漏らし、そして彼は、振り向いて社長に言った。
「……出来ません」
すると、社長は当然だと言った面持ちで彼に近寄り、こう告げた。
「なら、君はクビだ」
ゴードンは「はい」と頷き、撮影スタッフ達の後ろへと退いた。すると入れ替わりに、どう見ても同じ犬族で、動きもそれそっくりなのだが、首筋にロボットの証であるマークが付けられた仕事用ロボットとすれ違った。その時のロボットの顔を見た時、ゴードンは思わず怒りに震え始めた。何故ならそのロボットの顔には、勝ち誇った笑みが浮かんでいたからだ。当然これは作り物で、誰かの意図的な遠隔操作による指示だとは分かっていたが、それでも彼の
憤怒 の感情は、一歩踏み出す度に逓増 していった。彼は心の奥底で、この絶望を
齎 したロボットに讒言 を吐きながら、すごすごとタクシーに乗り込んだ。自宅への直帰だったが、運賃は勿論自腹だった。