back

 

  著者  :fim-Delta

 作成日 :2008/09/21

第一完成日:2008/10/08

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 雄鯱のアルカンの部屋には、今掃除婦が来ていた。部屋には誰もいず、彼女はいつものように合鍵で扉を開けて中に入り、そこで芥箱(=ごみばこ)の中身を清掃カートのダストパックに移した。その時、底で何やら瓶のような物が当たる音が聞こえ、彼女はダストパック内を探り、それらしき物を手に取った。

「空の瓶、ね……全く、ちゃんと分別して欲しいものよね、幾らビルミートの手下とは言え」

 そう言って彼女は、その硝子瓶を瓶専用のダストパックに移し変えた。

 

 

 

 この裏組織<ビート>のボスである雄鯨のビルミートは、起き伏しがかなり困難になっていた。彼はアサイリーマへの渡航から帰着して僅か半年で、体がなんと一.五倍程にまで膨れ上がり、安楽椅子も新たに(=あつら)えていた。そして大きく成長した縦縞のお腹は、目の前の机に軽々と接し、少し前に机をずらして貰っていた。おかげで腹が机に触れることはなくなったが、前のめりにならない限り、手先がそこへ届かなくなってしまった。なのでその机は今では、彼が立ち上がる際の支えとして、また料理の一部を載せて置くためだけの物と化していた。

 もはや彼は、単なる健啖家(=けんたんか)では済まされなかった。

「くそ……何だって俺、こんなにも太っちまったんだ?」

 と言っても、その理由は明らかだった。それは独言(=どくげん)中も動き、届く範囲に置かれた食べ物を掴む手、そしてそれを動かす自意識だ。原因は不明だが、彼の食欲は今止め処ないものになっていた――常に何か食べてないと、苛々(=いらいら)が募り自我が崩壊しそうになるのだ。それでも彼は、自らを危ぶみ出来る限りの制欲は出していた。しかしながら鯨飲馬食という言葉が、鯨である彼に今も尚相応しく、別段今日はその症状が重かった。

 彼の両脇にはサービスワゴンが置かれていた。それらは上下に分かれ、それぞれに一皿の料理が載せられていた。サービスワゴンが許す限り盛られたそれは、普通の海洋生物にして見れば数人前、鯨にして見ても二人前に近い量で、それをビルミートは汗を掻きながら、そして少々の(=よだれ)(=かす)(=こぼ)しながら豪快に平らげていた。そのせいで彼のお腹は大きく膨れ、鯨特有の縦縞ラインを更に崩し、凝視しても胴体と繋がる各部位の境界を垣間見えなくさしていた。そしてそんな彼を、部屋に来ていた手下の二人が呆気に取られ(=ぼう)と見つめていた。

「ごふ……ふぅ、何だか唐突に甘い物が食いたくなったぞ」

「ぼ、ボス? 彼此(=かれこれ)もう八人分は食べていますが――」

 ビルミートは、未だある程度動かせる尾鰭をゆっくりと持ち上げた。そして力を加えつつ、重力に従いそれを勢い良く振り下ろすと、重量が増した尾鰭が床に「どだん!」という衝撃と音を与えた。辺りが一瞬ぐらりと揺れ、床が(=えぐ)れて破片が飛び散った。それに手下達の顔は大いに青ざめた。

「ひぃー! わわ、分かりました、け、けけ、ケーキでよ、宜しいですか?」

「たんまりとだ、特別巨大なものを!」

『はは、はい!』

 手下達二人は、ビルミートの机を回り込んでサービスワゴンを回収すると、それを押しながら部屋を慌てて出て行った。

 ――ぐごぉぅ……

「クソ、俺の腹は一体どれだけ食えば満たされるんだ?」

 彼は分かっていた、自分の体が明らかにおかしいと。だが精神異常を来すわけにはいかず、食事を止めることは許されなかった。そしてそんな中、別途に注文していた料理が、また別の手下達二人によって運ばれて来た。

「ボス、注文のピザを十二枚用意しました。しかし厨房の都合上、サイズが陸上生物の大きさに――」

 新たな料理を待ち切れないビルミートは、手下の贅言が気に障り、尾鰭を持ち上げ再び振り下ろした。先程以上に舞った破片と轟音に、二人の手下達は謝りながらサービスワゴンを運んだ。

「す、すいません、ごめんなさい! こ、これがピザです――ちゅ、ほか、注文は他に――」

「とっとと失せやがれ!」

 手下の言葉の飣餖(=ていとう)に、ビルミートは怒号を発し、手下達は謝罪と悲鳴を残しながら部屋を去って行った。

「ちっ、陸上生物はどうしてこんなちっぽけなものしか食わねぇんだ!」

 愚痴を零しながら彼は、たったの数口でピザを丸々一枚平らげた。そしてその下にあったもう一枚のピザを手に取ると、それをばくりと豪快に頬張り、胃袋の中に全て詰め込んだ。彼は皿にあった最後の一枚も同様に完食すると、休むことなく次の皿に手を移し、残りのピザ九枚がなくなるのももはや時間の問題であった。

 

 一方アルカンはというと、厨房でビルミートのための料理をせっせと作っていた。半年前から急激に注文量が増加しており、ビルミートの食欲の暴走はその時から起こり始めていた。それにアルカンは、内心では素晴らしい高揚感を味わっていたが、少人数の厨房でビルミートの食欲分料理を(=こしら)えるのは非常に酷で、正に犬馬(=けんば)の労をとっていた。

「アルカン、近頃のボス、どうしたのかしら?」

 同僚の雌鯱が話し掛けて来た。彼女はアルカンと同種だが、今ではかなり太ってしまった彼をも優に上回る程太っていた。シェフを除いてだが、この厨房内では格段に太っているのが二人おり、その二本の指の中に彼女はいた――しかも上の方に。その姿は、諸方何処から見ても丸い球形で、突き出たお腹同様に膨れた背肉が背鰭をかなり沈めていた。コックコートもかなりぴっちりしており、そんな彼女だからか額からは汗が吹き出し、疲労困憊の気色を浮かべていた。既にここ一番の肥胖(=ひはん)者であるシェフは、ロッカールームで休息を取っていた。

「さあな。けどまっ、これだけの量を食べるのは尋常じゃないな。それと、少し休憩を取ったらどうだ、大分疲れてるだろ?」

「でもそんなことしたら、また厨房の人数が減るわ」

「大丈夫、気にするな、いつものことさ」

「そうそう。そんでいつも通り、おいら達で何とかするから」

 そう後押ししたのは、彼女の彼氏である雄海豚だった。彼もまた非常に肥えており、即ちこのカップル二人が、厨房スタッフのトップツー肥満者なのである。

「でも大丈夫? あたいもそうだけど、あんたもその体なのよ」

「はは、おいらを侮っちゃあ駄目だよ」

 そう言いつつも、海豚もかなり辛そうな表情をしていた。その気持ちがアルカンには、今では少なからず実感出来た。何故なら今の彼は、コックコートのサイズを半年前より二三増やし、それでも着衣してるコートが少々きつくなる程太っていたからだ。丸顔に近付いて頬はぷっくりとし、二の腕はだらしなく垂れ下がり、両腕を下ろすと必ずや肉付いた脇腹に接していた。そして腹は見事な太鼓腹となり、直立からでは足への視界を完全に遮っていた。脚に関しては、大腿部が痩身時のウェスト程にまで太くなり、尾っぽも同様に膨らんで、歩く時の動作が全体的に少し大仰になったのに対し、そこらだけは逆に可動範囲が狭まっていた。そんな大変化を遂げた彼だからこそ、在りし細身な過去にはなかった体の重々さが、こんにち(=しっか)りと身に(=)みて感じられるのだ。

「……それじゃお言葉に甘えて、少し休憩させて貰おうかしら」

「うん、そうするといいよ」

 雌鯱は、調理中の料理を作り終えると、シェフが休憩しているロッカールームへと向かった。雄海豚は既に業務を再開しており、アルカンも再び調理を進めた。するとその時、背中越しに雄鮫が語り掛けて来た。

「聞いたかアルカン、内紛の話」

「内紛?」

「ああ。ボスはどうやら、噂ではもうまともに動けないらしい。それ程までにボスは、原因は分からんが肥大したってことだ。それで威厳がなくなりゃ何処だって内紛は起きるし、下克上を起こしてトップの座を奪おうとするだろう。前にもそういう輩がいてな、そんな奴等にボスは色々と手を砕いて抑えて来たんだが、噂通りの体ならもはや(=ざる)に水って奴だ」

「……そうか……」

「もしかしたら、ボスが太ったのはスパイが原因かもな」

「スパイ、だって?」

「あくまでもこれは噂なんだが、誰かが<ビート>を嗅ぎ回ってるって聞いたことがある。もしそいつがスパイとしてここに潜入し、ボスの威光を崩すのが目的だったとしたらどうだ? 恐らく何か危険な薬物を使い、それがボスを変貌させた。最も有力で納得出来る答えだと思うんだが」

 アルカンは(=おもむろ)に頷きながらふと、随分前に<ビート>を嗅ぎ回っている奴がいるという話を、ビルミートから直々に聞いたことがあるのを思い出した。だが本当の原因はアルカン自身、本来ならここで思い違いを喜ぶべきなのだが、彼には嬉しさなどこれっぽっちもなかった。確かにビルミートを恨んでおり、こうやって零落(=おちぶ)れさせるために老鼠から貰った薬を、アルカンは日々料理に混入させて来た。しかし、ビルミートが太り過ぎて動けないのなら、彼は今殺されるのに格好な状況にある。さすがのアルカンも、ビルミートが死んでしまうことには至極(=しごく)気が重くなった。

 そんな表情を見て取ったのか、鮫は申し訳なさそうにこう謝った。

「わ、悪い……そういえばボス、お前の親友だったっけ」

「あーいや、(=)親友だ。別に気にすることじゃない」

 アルカンはきっぱりと答えたが、その表情は少し硬かった。今更もう手遅れで、彼にはビルミートをどうすることも出来なかった。唯一出来ることと言えば、身辺で起きる情報に耳を傾けることだけだった。

 

 

 

 それから四月が経った。鯨のビルミートの太り方は目覚しく、余りにも肥満してしまったために彼は、自力でどころか他人の力を借りてさえ、新調された安楽椅子から微動だに出来なかった。そんな彼を、雌海豚のリタが付きっ切りで面倒を見ていた。四ヶ月前、段々と変わり果てるビルミートを心配し、彼女はその時からずっとそばにいるのだ。それには何より、彼女にはとある約束事があったからでもあり……

「ふぅー……お代わりを頼む、リタ」

「お願いビルミート、もう食べるのは止めて」

 しかしビルミートの顔には、威厳などをなくして懇願が浮かんでおり、リタはその哀れみに負けて、サービスワゴンから数人前の料理皿を手に取ると、彼の腹テーブル乃至(=ないし)胸テーブルに載せた。それを彼は、まるで飲み物のように口の中へと掻き込むと、五分もしない内にそれを平らげた。だが余りの勢いに、彼は思わず(=)せてしまった。

「ぐふっ、ごふ――」

「だ、大丈夫!?」

「――んぐっ……こ、コーラを」

「分かったわ」

 リタは素早く、コーラが入った一ガロン(およそ三.八リットル)のペットボトルを彼の目の前に差し出した。彼はそれを、まるで赤ん坊のように両手で支えると、ぐびぐびと一心に飲み始めた。その凄まじさは、両端からコーラを零すのを見れば明らかで、いとも容易く一ガロンのコーラを飲み干してしまった。それから彼は、一際豪快なゲップを(=くう)に放つと、零したコーラで濡れた体を彼女に拭いて貰った。しかしながら彼の体は、脂肪に埋め尽くされ駁雑(=ばくざつ)とし、幾多の迫り出た肉が累積していたため、その隙間にもコーラが流れ込んでしまっていた。鯨特有の縦縞も入り乱れ、縦横無尽に膨れた胴体は一線の繋がりも不明瞭にし、谷間に流れ込んだ液体を拭き取るのは労力と勇気を要した。

 それでも彼女は、奥まった部分にもきちんと手を挿し込み、入念に彼の体を拭いてあげた。

「ごふぅ……リタ、お代わりを」

「ないわ」

「な、ないって、それなら手下を呼んでくれ」

「駄目よ。これ以上食べたらあなた、生きていけなくなるわ」

「頼むよリタ、お願いだ」

 だがリタは答えようとしない。するとビルミートは顔を歪め、一段と厳しい面持ちになった――しかしそれは怒りではなく、辛酸に(=あえ)ぐ苦悶の表情であった。

「はぁ、はぁ、お願いだリタ、腹が、腹が減って死にそうなんだ!」

 そうおめいた彼の口端からは、食べ物を欲して異常分泌された唾液がだらしなく滴り、彼の体を伝い落ちた。そんな汚らわしいものも、彼女は少しの躊躇(=ためら)いもなく(=しっか)りと拭き取った。

「ビルミート、分かって。あなたの威厳はもう損なわれているのよ、噂は聞いてるでしょ? もし今下克上が起きたら、あなた、殺されてしまうわ」

「飯をよこせえぇー!」

 彼女の説得も(=むな)しく、彼はとうとう激昂し始めた。その声はある種、奈落の底から届いた悲痛な大声疾呼(=たいせいしっこ)のようでもあり、彼女はそれに痛く心を痛め、実はまだ残っていた最後の料理皿を彼に渡すことにした。すると彼は、受け取った料理を一挙に口の中へと押し流し、溢れて両側に零れ落ちるのも何のその、少しでも早く胃袋に物を詰め込もうと必死になった。その姿はまるで、別の意味で非形(=ひぎょう)した餓鬼のようでもあった。

 そんな彼が、数分で最後の料理を見事平らげた正にその時、部屋の扉が勢い良く開け放たれ、そこから幾多の手下達がわさわさと中に入って来た。

「ボス……いやビルミート! もはやお前の<ビート>は終わった、これからは(=)の<ビート>になる」

「あ、あなた達、一体何してるの!」

「見ての通り、ボスの座を乗っ取るのさ」

「そ、そんなこと――」

 その時ビルミートが、小声でリタにこう命令した。

「逃げろ」

「――えっ?」

「逃げるんだリタ。俺の椅子の裏にプルスイッチがある、使い捨ての脱出用スイッチだ」

「な、何を言ってるの!?」

「おい、何をごちゃごちゃ喋ってる! さあビルミート、覚悟は出来てるんだろうな?」

 しかしビルミートは、手下達を無視しリタに言い聞かせた。

「<ビート>はもうお仕舞いだ。ここから逃げ、このアジトの場所を(=おおやけ)にするんだ」

「だけどビルミート、あなたはどうするの?」

「この体でどうしろと言うんだ?」

「けどあなた、ここにいたら確実に殺されてしまうわ……」

「心配するなリタ、殺されはしないさ。殺されるのは俺の理念に反するからな」

 リタは、逡巡したが、何とか意を決し頷いて見せた。彼を信じて。

 彼女はサッと彼の頬にキスすると、急いで彼の椅子の後ろで屈み込み、下に見つけたプルスイッチを素早く引っ張った。途端に取っ手が外れ、同時に床が大きく開いた。彼女はそのまま一瞬にして落下すると、急な下り坂を滑り落ちて行った。それから、床は再び口を閉め、開閉器を失ったそこは開かずの物となった。

 その音に気付いた反逆者達のリーダーである鼬鮫(=イタチザメ)が、慌ててビルミートの元へ駆け寄った。

「お、おいビルミート、今何をした!?」

「何もしてないさ」

「……おい、リタは何処だ?」

「さあな」

「クソ、話せこの肉弾鯨が!」

 だがビルミートは、勿論のこと答えなかった。

「おい野郎ども、この部屋に脱出用の行路があるはずだ。探せ、探すんだ!」

 リーダーも捜索に加担する中、ビルミートは全身の脂肪に阻まれながら何とか体を前に屈め、片方の手を机の方に伸ばした。前腕、そして二の腕に付いた多量の肉がずしりと垂れ下がったが、彼はその重みに耐えながらも何とか抽斗(=ひきだし)を開けた。そしてそこから、彼は静かに一丁の拳銃を取り出した。その行動に気が付いたリーダーは、思わず気が(=)いた。

「お、おい、何をする気だ?」

「俺がボスでない<ビート>は、もはや壊滅したも同然。それにお前らは、必ずや俺を殺すことだろう。だが殺されるのは、俺のプライドが許さない」

 そう言ってビルミートは、なんと握り締めた拳銃を腕の肉につかえながら、後ろの方へと回して側等部に銃口を向けた。リーダーが疾走しそれを止めに掛かったが、ダブルアクション式の拳銃が功を奏したというべきか、撃鉄を起こす動作が省けたため、ビルミートは引き金を引くと同時に自らの生涯を、一瞬にして生害で終わらせた。

 リタへの宣言通り、彼は確かに殺され(=・・・)なかった。

「な――なんてことを!」

 一瞬冷静さを欠いたリーダーだったが、さすがそこは自らの手下達を率いるだけあり、すぐに現状を理解した。

「……いや、待てよ。(=むし)ろこれでいい、態々(=わざわざ)ビルミートを仕留める必要はなくなったんだからな。これでもう、横柄な口を聞かずに済む」

 リーダーは静かに笑い、手下達を呼び寄せた。

「よしお前等、この醜い肉の塊を運ぶぞ」

『へい!』

 謀反者達一同は、ビルミートの(=むくろ)を囲って一斉に持ち上げようと試みた。しかし、ビルミートは見ての通り、ただでさえ重い鯨を何人も寄せ集めた体だ。その重さは、持ち上げるためのスペースを埋める人数比を遥かに上回り、生きものの力だけでは到底動かすことが出来なった。

「ふんんぐぐぅうー――かはぁ! ……ひぃ、なんだよこの重さは?」

 結局ビルミートの体は、水平すだれ式波動実験器(=ウェーブマシン)のように脂肪が踊っただけだった。

「リーダー、フォークリフトを使わないと無理ですよ」

「もうその呼び方は止めろ。今からは俺はボスだ」

「へい、ボス。それでどうしましょうか?」

「フォークリフトはここには入れられないな。畜生、欲太りのビルミートめ、どうしてこんな化け物見たいな体になったんだ?」

「全くですねボス。ビルミートの奴、一体どれだけ食欲に溺れてたんでしょうかねぇ?」

「噂では、この<ビート>に潜むスパイの仕業だと言うが。確かに俺等には好都合だったが、こりゃあさすがにねぇよ、マジで」

 リーダーこと<ビート>の新ボスは、ビルミートの亡き骸に向かって罵りながら、その死体をどうするか手下達と話し合った。

 

 見知らぬ地下へと降り立ったリタ、そこは地上との隙間から射した光でまだ明るく、彼女は日没前であることに感謝した。彼女はそんな通路を先へと進み、この場所がどこかを大まかに悟り始めた。実は地上から見ると、この場所は一種の下水道なのだ。しかしどうやら、ここはそれだけのためにあったのではないらしい。

 やがて彼女は、先に階段を見つけ、ここに来た時と同じあのプルスイッチを横目で捉えた。彼女は足を止めることなくそこへと近付くと、プルスイッチをバッと引いた。すると取っ手が抜け落ち、階段の先にあった天井が重々しく開き始めた。彼女は足早に階段を上り、そこから外へと出ると、後ろでその天井がゆっくりと閉まった。先程通った地下通路は、たった今完全なる下水道となった。

「ここは……<ビート>近くの裏通りね」

 (=もや)がかった通り、ここ最近外へ出ていなかった彼女には、久々の光景だった。

「早く、誰かを探さないと」

 急いで通りを駆け出した彼女。この場所は普段人は通らない――というのも<ビート>を恐れ、関係者以外は普通通らないので、彼女はここから一般道か大通りに出て、誰かに救援を求めようと考えた。

 とその時、リタはこの裏通りで、偶然にも誰かとばったり出会ってしまった。視界の悪い状況で走っていた彼女は、思わずその人とぶつかりそうになった。

「ご、ごめんなさい!」

「大丈夫? 誰かに襲われでもしたの?」

 そう声をかけたのは、何やら手に小さな器械を握る雌の鮫だった。その顔にリタは見覚えがあり、そして鮫の方も、彼女に見覚えがあるようだった。

「……リタ、あなたリタね? リーラ市役所税務課にいた」

「えっ、どうしてそれを――!」

 リタは、目の前にいるのが誰かをようやく思い出した。

「ラット!?」

「そうよ、覚えてくれてたのね。それにしても何で、こんな危険な場所にいるの? まさか、アルカンに関する何かが――」

「話はあとにして! 全部話すからお願い、警察を呼んで!」

「ど、どうしたのよ行き成り?」

「今<ビート>が大変なことになってるの。だからお願い、応援を呼んで頂戴!」

 何故リタが<ビート>の場所を知っているのか、ラットにとって疑問点は数多くあったが、険相なリタの表情には一刻の猶予もないことを呈しており、ラットはすぐさま携帯電話で警察に通報した。実はラット、アルカンの家に警察を呼んだことがあったおかげで、少なからず警察署には顔が利いていた。

 

 リタは警察隊、そしてラットと共に、裏通りの隠し扉から<ビート>のアジトへと潜入した。そこからビルミートの部屋は近く、途中に見張りがいなかったのも奏功し、彼等はすんなりと部屋まで辿り着くことが出来た。するとリタが、警官の静止を振り切って真っ先に扉を開けると、中へ入って行った。

 部屋には反逆者達が勢揃いし、ビルミートを動かそうと躍起になっていた。だが扉が開く音に手をひたと休め、彼等は部屋に入って来たリタを一斉に見つめた。そして、後ろに控える部隊に気付いた瞬間、彼等の血色は潮の如く引いて行った。

「り……リタ!?」と、謀反者達のリーダーが当惑気味に叫んだ。

「あなた達の計画は、もうお仕舞いよ」

「クソッ! だがリタ、お前も捕まるんだぞ!?」

「わたしは、ビルミートに従ったまでよ」

 リタはそれ程、ビルミートを信頼していたのだ。そういえばその彼は……

 彼女は、真正面に居座る彼の姿を見て、言葉を一瞬にして失った。広がった脇腹の上に載せられた彼の腕、その手には一丁の拳銃が握られており、銃口が自身の頭部に向けられていた。そして微動だにしない彼の様子から、彼女は事を悟った。

「……う、嘘……嘘でしょ?」

「お、俺は何もしてないぞ、こいつが勝手に自害したんだ!」

 しかしその反論も空しく、ぞくぞくと入ってくる多勢な警察官達に彼は、手下達同様取り押さえられてしまった。そんな中をリタは、遮二無二(=しゃにむに)駆け抜けビルミートに近寄った。

「び、ビルミート?」

 彼女が問いかけるが、彼は(=うつむ)いたままだった。体を揺すって見ると、まるで(=さざなみ)のように体中の肉が揺蕩(=たゆた)ったが、そこに生命の息吹は感じられなかった。ドッと湧いて来た感情に、彼女は自らを支えられず彼の胸元に倒れ込んだ。そして顔を、分厚い脂肪で覆われた彼の胸元にうずめた。

「ビルミート……約束したじゃない、わたしと結婚してくれるって。あれは、嘘だったの? そんなの嫌よ、だってあなたのこと……あなたことが好きなんだから!」

 溢れ出た感情と涙が、醜いビルミートの体を伝った。棚田のような起伏あるその巨大な肉体には、それらは余りにも小さ過ぎたが、リタの切なる願いと強い気持ちは、決して大きさでは判断出来ない物だった。

(――ドクン……)

「えっ?」

 思わず彼女は、彼の肩に手を付いて上体を起こした。今、彼女は何かを感じ取った。胸元からの僅かな震動……それは内側から響いたようであり、また音を伴っていた。

 彼女はもう一度、彼の胸元に頭をうずめて見た。但し今度は耳を下にして。

(……ドクン……ドクン……)

 小さいがはっきりと分かった。それは正しく、ビルミートの鼓動だった。

「生きてるわ……ビルミートは生きてるわ!」

 その歓声に、部屋中の誰もが驚いた。反逆者達のリーダーは彼女に言った。

「ちょっと待て、そいつは自らの手で頭をぶち抜いたんだぞ?」

「でも、心臓は動いてるわ、生きてるのよ」

 リーダーは信じられないという面持ちだった。頭を撃っても死なない――まさかビルミートは不死身なのか、そうリーダーは考え始め、彼に対する恐怖を蘇らせ背筋を凍らせた。

 その時、リタの元へ何人かの警察官がやって来た。

「そいつが生きてるのか?」

「ええ。でもお願い、早く救急隊を呼んで!」

「分かった」

 頷いた警官は、胸元に掛けた無線機を通して、相手側に生存者とその状態を報告した。その際、ビルミートが鯨であると伝えるのに少々手間取っていた。何せ彼の体は、ひと目では生きものかどうかすら判断し(=がた)く、無量無数の脂肪で正常な体形を成していなかったからだ。

「……よし。リタさん、この状態なら救助隊がベストだ、彼等はすぐに駆けつけて来る。しかし、一体どうやってこの鯨を部屋から出す?」

 すると別の警官が、こう提案した。

「部屋の入り口を壊して幅を広くするのは? 何回かテレビで見たことあるんですが、太り過ぎて動けなくなった人は、壁や玄関などを破壊してそこから運び出すらしいです」

「なるほど。それでは通路や隠し扉、そっちの方の幅はどうだ?」

「彼の大きさなら何とか大丈夫でしょう。それに大半が脂肪なのであれば、ある程度形を変えられるはずですから」

「よし、ならその情報も伝えておこう」

 再びその警官は無線機を使い、手配した救助隊に計画を伝えた。

 それから少しして、ビルミートの部屋には救助隊が到着し、数多くの救助隊員がビルミートを囲んだ。彼等はビルミートに出来るだけの手を施し、一部の隊員は入り口の拡張作業へと入った。その様子を、記者であるラットは又と無いチャンスだと、デジタルビデオカメラを回して忙しく撮影し始めた。

 そんな中、リタはビルミートに付き添い、心の底からこう祈っていた。必ずや彼が、黄泉(=よみ)の門をくぐらずして帰還することを。

 

 一方その頃、厨房にも<ビート>内を捜索する警察隊の一部が、今正にやって来ようとしていた。

「……なぁ、ビルミートは大丈夫だと思うか?」

「そうだな、まあ大丈夫だろ。アルカンだってそう思うだろ?」

 気が気でないアルカンに、雄鮫は優しく答えた。シェフも同じようにして、アルカンを励ましてあげた。

「ボスが強いの、アルカンさんはいの一番に知ってるんでしょ? だから大丈夫だって」

 するとその時、厨房のスイングドアが開け放たれ、そこから警官達がぞろぞろと入って来た。

「おい、全員手を上げろ! そして名を名乗るんだ」

 行き成りの出来事に、厨房にいた全員が困惑した。すると警官が、近くの人から順に銃口を向け始め、向けられた側は緊張しながらそれに答えた。シェフも勿論名前を告げ、最後にアルカンの番が来た。アルカンは、もはやこれまでかと心中で(=ほぞ)を固めた。

「そこの太った鯱、お前は?」

「……アルカン」

「何、アルカンだと?」

 質問した警官は耳を疑った。

「もう一度言って見ろ」

「アルカン、です」

「まさか……確かに同じ種族だが、あのリーラ市役所税務課の課長だとでも言うのか?」

 警官が疑うのも無理はない。当時痩身だったアルカンの体は、今ではぶくんぶくんになっているのだから、それは当然の反応だった。

「元リーラ市役所税務課課長、そして収賄罪で指名手配中のアルカン、私はその者だ」

「……とりあえず、全員署に同行して貰おう。それとアルカンと名乗る奴、お前は私が連れて行こう」

 アルカンは(=おもむろ)に頷いた。そして厨房にいた全員は、警察署へと連行されることになった。

 

 それから、ビルミートは何とか部屋から救助され、刑務所に(=)れられないのもそうだが、まず先に病院へと搬送された――勿論特別な荷台トラックで。そして彼の<ビート>にいた手下達は、大半が処罰されることとなり、特にアルカンのような指名手配中だった者は確りとそれの懲役を科せられ、<ビート>は表向きの港湾労働組合も含め、完全に(=つい)えた。

 

 

 

「ん……こ、ここは……?」

 ビルミートは目を覚まし、太り過ぎで動けない体なので、彼は首だけを回して辺りを一望した。そこは、何処も彼処(=かしこ)も同じような平原の風景が並び、他にあると言ったら、彼が今いる所から無限遠に伸びる川だけだった。

 ふと彼は、自分がその川を進む小舟の上にいるのを知った。更に目の前には、ずんぐりとした影が知らぬ間に現れ、それが(=かい)を使って舟を漕いでいた。光すら吸い込みそうな程黒いその姿は、どことなく親近感があった。

「おい、ここは何処だ?」

「何言ってるんだ、自分が選んだ道だろ」

「俺が選んだ、道?」

 ビルミートは考えを巡らしたが、今一理解出来ず頭が痛くなり始めた。その時、不意に遠くから声が聞こえて来た。

「ト……」

 耳を澄ますと、その声は後ろの方から来ていた。

「ミート……ビルミート……」

「リ、リタ!?」

 はっきりと聞こえたリタの声。彼は漕ぎ手に言った。

「おい、戻ってくれ!」

「どうしてだ?」

「どうしたもこうしたもない、進むのを止めて戻るんだ!」

 しかし漕ぎ手は、何も返さずそのまま水を掻き続けた。高慢な影の態度にビルミートは、怒りに震え相手に挑もうとした。だが彼の体は、動かすには余りにも重過ぎ、全身の肉を揺らしただけに終わった。しかしながら彼は、自らの肉体がぶよぶよと揺れる感覚を味わい、そして揺曳(=ようえい)を残す醜い体を見て、今更ながら自身の弱さを自覚した。

「……頼む、戻ってくれ」

「何故だ?」

「あの声の元に、俺は帰りたいんだ」

「自分で捨てた道だろ?」

「頼む、お願いだ!」

「ふざけるのも大概にしろ。俺の身にもなって見ろってんだ」

 しかしビルミートは、今までの自分を捨てこう(=)った

「お願いだ……頼むから、頼むから俺を助けてくれ……」

 ビルミートの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。情け無い顔をし、もはや<ビート>のボスであった威厳などとうに無くしていた。

 するとどうだろう、小舟はゆっくりと速度を落とし、そして逆走し始めた。気が付けば漕手はすっかりと姿を消し、代わりにそこには、丸々と太った雌鯨がどっかりと座り込んでいた。その鯨にビルミートは、思わず声を上げた。

「――お、お袋!?」

「ビート、あんたはとんだ親不孝者だね。母親である私を殺した上、自ら命を断つなんて」

「ご、ごめん……謝って済まされることじゃないよな」

 ビルミートの、心から反省したような口調と態度に、母親は溜め息を漏らしてこう答えた。

「まっ、仕方がなかったのかもね。夫は麻薬商売に手を出し、あんたと私を日々甚振(=いたぶ)ってた。本当はそんな悪党なんかと離婚して、産みの親である私があんたを守り、ちゃんと育てるべきだったのよ」

「違うよお袋、お袋は悪く無い」

「あら? あんたからそんな口が聞けるなんて、まるで夢のようだね。……けど、本当にごめんね、ビート。あんたには色々と辛い思いさせちゃって」

「お袋……」

 彼の両目には、既に溢れんばかりの涙を(=たた)えていた。

「あんたの罪は消えないだろうけど、幸いあんたが殺して来たのは悪党ばかり。善を殺すのは悪いことだけど、悪は本来死んでも当然な存在なの。だからビート、今までは運が良かったと思って、これからは真面目に精進するのよ」

 すると突如、母親の全身が薄くなり始めた。

「お、お袋!」

「今の、分かった? これからはちゃんと生きるのよ。あんたはもう天国には行けないだろうけど、今ある余生は確りと(=まっと)うしなさい」

 そう言い残し、母親は完全に姿を消した。ビルミートは静かに頷きながら、生まれて初めて、滂沱(=ぼうだ)の涙で目を(=)らした。

 

 

 

3-Cへ


back
- Website Navigator 3.00 by FukuraCAM -