著者 :fim-Delta
作成日 :2008/09/27
第一完成日:2008/09/27
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「……んー……」
「――! ビルミート?」
雄鯨のビルミートが目覚めたのを見て、雌海豚のリタが声を掛けた。
「り……リタ、か?」
「ええ、そうよ。良かった、戻って来てくれたのね」
「俺、生きてるんだな」
「医者の話だと、あとほんの少し腕が後ろに回っていたら、脳の重要な部分が損傷を受けて、命が無かったろうって」
「それは……どういうことなんだ?」
「おかしな話、あなたの壊したのはその太った体、けどあなたの命を助けたのも、その太った体ってことよ」
ビルミートは、再帰した脳でリタの言葉を
解 しようとした。「つ、つまり、どういうことだ。俺が太っていたから、腕が脂肪に阻まれて挙動範囲が狭まり、それで撃ち所が悪い場所には行けなかった、そういうことなのか?」
「その通り。何だかロボトミーがなんたらかんたらで、それと同じような状態になったんだって」
「そう、か……」
ビルミートはここで、複雑な気持ちになった。確かに彼の命は助かった、しかしその要因は、自らをここまで引き立てたこの肥満体なのだ。彼は、
漸 く復活し始めたその双眸で、自分の体を眺め回して見た。あの川を進んでいた時と同じで、なんとも醜かった。ベッドは鯨用の物を三幅対にした物。しかしそれよりも彼の体は巨大で、大きな縦縞の腹だけでも、ベッドの両脇のサイドレールに乗っかる程だった。なのでその部分ではない、脇腹辺りの部位は、全てそのベッドから垂れ下がっていた。甚 だし過ぎるその脂肪に覆われた体躯に、彼は顔に嫌悪の表情を浮かべた。ここで彼は、目覚めたばかりでこんなにも胸糞が悪いのもあれだと、リタに話を掛けて気を紛らすことにした。
「そういえばお前、俺が眠っている時、ずっと声を掛けてたのか?」
「勿論じゃない、でもどうして?」
「声が聞こえたんだ。夢か、それとも三途の川か、良くは分からないが、その声で俺は助かったんだ」
「本当? 良かった、本当に良かったわ……」
するとここで、リタの目からは止め処ない涙が頬を伝い、床へと落ちていった。その表情を見たビルミートは、朗らかに言った。
「泣くなよ、リタ」
「だってわたし、あなたの妻になれると思ってたのに、なのに逝っちゃうと思ったから。でもわたしの声で、あなたが助かったから……」
「お前……そんなに俺が好きだったのか?」
「だったじゃないわ、今も好きよ」
するとビルミートは、改めて自分の醜体を見つめた。
「こんなに醜い体でも、お前は俺を好きだと言うのか? ふん、どうせ俺なんかこのまま、罪と贅肉という二つの重りに一生縛られるのさ」そう言いながら、彼は一転して悲しい表情をした。もはや過去の威厳など
疾 うに失せた彼だったが、リタは優しい声で慰めた。「そんなことないわ、わたしが付いてるもの」
「お前、こんな俺と居たら、周りにどう言われるのか分かってるのか?」
「大丈夫よそんなの。あなたと居られればそれで幸せよ」
思わずリタの顔を、ビルミートは窺った。その顔から溢れる純粋なオーラに、彼はつい泣き出しそうになった。そんな顔を見たリタは、笑いながら言った。
「もう、泣かないでよね。あなたらしくないわ」
「ふ、ふん。俺が泣くなんて、そんなことはしないさ」と口では言っていたが、彼女の優しさに心打たれ、沸々と湧く感涙を堪え切れず、とうとう
噎 び出した。「ごめんな、リタ。こんな、こんな俺で……」
「ふふ。でもビルミート、そんなあなたもわたしは、本当に大好きよ」
ゆっくりと伸ばした手、軽くてほんのりとした彼女の感触が、神経を通じてビルミートの脳に行き渡った。
「ビルミート、わたしと結婚してくれるわよね?」
「こ、こんな……こんな俺でもいいのか?」
噦 りで声を詰まらせながら、彼はそう問い返した。すると彼女は、脂肪で覆われた彼の縞腹にゆっくりとその上体をうずめると、彼を優しく抱擁した。「今までずっと、あなたの世話をして来たのよ。今更結婚しないなんて言ったら、わたし、許さないからね」
そう言って彼女は、更に彼を強く抱き締めた。それは長い事、解かれることはなかった。
雄鯱のアルカンは、収賄罪として懲役二年を求刑された。リーラ市役所税務課課長という地位、そして職を失い、彼の人生は一気に陥落した。だが彼は、決してそれを悔やんだりすることはなかった。裏組織<ビート>のビルミート配下にいた時より、気持ち的にも断然楽だったし、それに何より、それは当然の報いだったからだ。しかも、ビルミートは太り過ぎで動くことが出来ず、また威厳を失った彼の<ビート>は完全に崩落したおかげで、アルカンは誰にも命を狙われずに済んだ。
それからアルカンは、二年という刑期を送り、とうとう出所することになった。裏組織<ビート>にいた頃は、厨房でのスタッフ達、特にシェフの影響を受け、かなり太ってしまっていた。体重は<ビート>に入り立ての時より、大凡三倍近くにはなっていただろうが、今ではその体も少しは絞られていた。
そんな足取り軽くなった身で、彼は家へと向かった。しかし家と言っても、前のあの邸宅とは違い、小さなアパートの一階であった。それは金銭的余裕を作るため、前の家を売ったからだ。足取りが軽くなったのも良いが、そんな金銭的なことを考えると、
寧 ろ地から浮いた感じが安心感を損なわせた。仕事も見つかりそうにないし、これからの展望が見えない今、はてさてどうしたものかと、彼は思案投げ首になった。そんなこんなで、彼は暫く家で過ごし、預金を崩しつつ、ぼうっとした日々が一日、二日と過ぎた。そして一週間が経った日のこと、突如家のベルが鳴り、彼は心臓が飛び上がりそうになった。とりあえず彼は、その心を落ち着かせると、玄関に向かい扉を開けた。
「アルカンさん?」
やって来たのは、一人の雌鯨だった。彼女には見覚えがあったのだが、二年という長いスパンのせいか、記憶が鈍っていた。
「覚えてませんか? あの<ビート>の厨房にいたんですが」
「――! ああ、今思い出したよ。悪い、二年間ずっと留置所にいたから」
「大丈夫です、気にしないで下さい」
「……それで、何か用でも?」
「あそこのシェフは、さすがに覚えてますよね?」
「ああ、勿論だ。彼は印象深いからな」
「実は彼、今とあるレストランを経営してまして、再びシェフをしてるんですよ」
「それはまた、おめでたいことだな」
「はい。それでシェフが、もしかしたらアルカンさんが職に就けなくて困ってるんじゃないかって。だからもしそうなら、そこのレストランであなたを雇いたいと言ってまして」
行き成りの就職チャンスに、再度アルカンの心臓が高鳴った。しかも仕事先は、あのシェフの元だとは。
「わ、私をか?」
「はい」
「本当なのか、それは?」
「勿論ですよ。良かったら今、そのレストランに行って見ませんか?」
「ああ、頼む!」
雌鯨と共にアルカンは、まず自宅の最寄り駅であるメイルト駅から、路面電車に乗って十分程した所までやって来た。そこはリーラ海が眺望出来、近くには港があった。
「こっちです」
そうやって雌鯨に案内されたアルカン、駅から徒歩でたった数分の場所に、目的地であるレストランがあった。そしてその看板を見た彼は、足を止めて少し心配になった。
「
ファティーズヾ ランチ ……失礼なんだがその、客入りとかはどうなんだい?」「アルカンさんが思ってる以上に人気がありますよ。見ての通り<ビート>と同じ港湾地区ですから、重労働者達も多数いて、堅肥りだったり大食いだったりする人が多いんですよ。けど、最初はちょっと
躓 き気味でしたけどね。でも徐々に、量の多さと安さが人気を呼んで、今ではかなり繁盛するようになりました。それにシェフの存在もありますからね、物珍しさに来る方もいるんですよ」「ははは。確かにあれ程太ったシェフは、この世にはいないだろうからな」
雌鯨も笑って答え、そして彼女は再び歩き始めた。すると彼女は、表玄関からでなく、裏の従業員専用の入り口の方へと回った。そこに着いた時、アルカンは思わずにやりとした。何故なら入り口が、ある意味当然の如くシェフに合わせられ、それがアルカンの横幅数倍以上もあったからだ。
「前と変わってないんだな」とアルカンは、可笑しくも安堵しながら、雌鯨のあとに付いて裏口に入って行った。するとすぐに十字路に当たり、彼女はそこを右へと進んだ。アルカンは一旦左を見遣り、そこがロッカールームである事を確認すると、次に前を見た。どうやら真っ直ぐ行くと倉庫があるようだ。そうやって店内を瞬時に見渡した彼は、再び彼女のあとを付けると、裏口と同じ大きさの巨大なスイングドアに到着し、その先にある厨房へとやって来た。
懐かしいな、とアルカンはしみじみ感じた。そして辺りを一瞥した時、ふと目に留った、コックコートを
纏 った巨大な背中に釘付けになった。「シェフ、アルカンさんを呼んで来ましたよ」その雌鯨の言葉に、その背中がくるりと回り、そして答えた。
「ああ、ありがとう。お久しぶりですね、アルカンさん」
そう言って近付いて来たのは、雄の
沖巨頭 ――そう、あのシェフだった。一瞬理解するのに戸惑ったアルカンだが、それも無理はない。シェフは以前より、凡そ二回り程は太っており、今のアルカンの三倍以上に成っていた。そんな太り過ぎた体から染み出た汗が、コックコートを所々濡らしていた。「ひ、久しぶりですねシェフ。その……随分と太りましたね」
「そうだねぇ。<ビート>を去ってからこのレストランを建てた時、始めは不調だったからね。その時余った料理を全部食べてたら、こうなったんだ」
「でも今では、余った物より普通に食べる量の方が多そうですね?」
「はは、鋭いねアルカンさんは。もうその通りで、あれから食欲が更に増しちゃってね、最近じゃあ五人前とか六人前じゃ全然足りないよ」
「勿論それは、海洋生物用量ですよね」
「勿論だよ」
笑いながら答えたシェフに対し、アルカンも笑いで答えた。気が付けば周りには、アルカンとの再会を待ち侘び、従業員達も集まって来ていた。彼らを一瞥したアルカンは、全員元<ビート>の厨房スタッフの集まりだということを知り、更に一同、一回りは確実に太っていたことに、どうやら胃袋が広がったのはシェフだけではないんだなと、シェフの厨房らしい雰囲気と状況に心朗らかとなった。
「それで、アルカンさん、是非ともここで働きませんか? あなたもここにいる従業員達同様、一緒に働いた仲なんですから」
当然のように、アルカンの答えは既に決まっていた。例え周りが太っていようが関係ない、皆同じ厨房で働いた仲だし、人生を堪能出来ればそれでいいのだ。何より出所したばかりの彼に、これ程の朗報は千載一遇のことなのだから。
「はい、是非ともお願いします!」アルカンは確と頷いた。
それから三週間、出所して一ヶ月が過ぎた頃のアルカンは、既にこのファティーズヾランチに溶け込んでいた。そして早くも、彼の体はリバウンドを引き起こしていた。
その日の昼過ぎ、港湾地区で働いてる人達の昼休みが終わり、逆にファティーズヾランチには昼休みがやって来た。
「さあて、これで一旦休憩のようね」
雌鯨はそう言って、最後のテーブルを片付けた。客もつい先程ゼロになり、厨房からは既に、従業員達用の昼食を作る音が聞こえていた。そんな中、レストランの扉が開かれたので、彼女は「珍しいわね」と思いながら、来客の方に顔を向けた。
「いらっしゃいませ! 空いてるお席の方、へ……」
彼女は思いもかけず口を止めた。入り口には、腹がぼこりと出た雌海豚、そして小さな子雄海豚と子雌鯨がいた。更にもう一人、そこには、歩いているのが不思議なくらい太った、腹部の縦縞が入り乱れた雄鯨がいた。その圧巻たる体に、普通なら度肝を抜かれる所だが、雌鯨は別の意味で言葉を失っていた。その雄鯨をテレビで見たことがあり、そして生でも見たことがあった彼女は、恐怖で目を白黒とさせた。
そんな彼女に対し、脂肪だらけの雄鯨は優しく声を掛けた。
「そこの、奥の六人用の席をいいか? 俺の体じゃあ、この店の椅子でも三つは必要そうだからな」
「……は、はい。畏まりました」
雌鯨は、ぎこちない動きで、指示されたテーブルに客を案内した。そして客らが席に着き、太った雄鯨が軽々と三席分を埋めるのを見届けると、彼女は「今メニューをお持ちします」と口早に言って、厨房に早足で戻って行った。
それから少しして、彼女はお盆に人数分のコップとお絞りを載せ、脇にメニューを抱えながら戻って来た。
「こ、こちらがコップとお絞り、そしてメニューの方になります。注文が決まりましたら……その、そこのボタンを押して下さい」
「分かった」
雄鯨が答えると、雌鯨は少しでも早くそこを立ち去ろう、身を翻した。その姿を見て、彼は彼女に声を掛けた。
「なあ」
「は、はい?」
「怖がってるのか?」
「そ、そんなことは……そんなことはないですよ、ビルミート様」
だが彼女の顔は、恐怖と緊張のあまりに引き攣り過ぎていた。そんな彼女に向かい、雄鯨ことビルミートは、更に声を和らげて言った。
「俺は、もう昔の俺じゃないんだ。その呼び方も止めてくれないか?」
「し、しかし――」
「普段通りにしてくれ。妻のリタもいるし、子供達もいるんだ」
そう言って彼は、二人の子供達、そしてずんぐりと太った雌海豚ことリタを手で示した。それに雌鯨は、再度驚かされた。
リタ……確かに彼女は、ビルミートの彼女であり、アサイリーマへ渡航中だった彼の代わりに<ビート>を取り仕切るなど、彼との親密さは周知だった。そして彼女は、ビルミート以外には
剛戻 自ら用 う程の、かなり激しい性格をしていた。それが今では、天地をひっくり返したようにやんわりとし、しかしがっしりとしたその体格に、昔とは違い姉御肌的な、良い方に捉えることが出来た。雌鯨は、ビルミートを長らく見てなかったのち、テレビでその変貌振りに驚いたが、リタに対しても同様の驚愕があった。
「俺は生涯、自宅
禁錮 で刑期を送るんだ。何もしないし出来やしない。今日は特例で外出させて貰ってるんだ、だから頼む、普通にやってくれ」おいそれと彼女は返答出来なかったが、大きく、鯨を超過して太ったビルミートの
声色 を聞き、少なからず心配はなさそうだと納得した。「分かりました、ビルミートさ――さん」
「それで良い。それと……そうだ、ここには昔厨房にいた奴等がいるのか?」
「は、はい。全員います」
「しかしアルカンだけは、さすがにいないか」
「あの、ビルミートさん。アルカンさんでしたら、数日前からここで働いてます」
「そ、そうなのか? だが、釈放されたばかりじゃないか」
「シェフがそれを見てまして、アルカンさんが仕事に就けなくて大変だろうと、ここに呼んだんですよ」
「そうか……なるほど、それは良かった」とビルミートは、嬉しそうな表情を浮かべ、語を継いだ。
「あいつには色々と悪いことをしたからな。いや、あいつだけじゃない、全員にだ。なあ、全員と顔を会わせることは出来ないか?」
「えっ?」と、雌鯨は思わず聞き返してしまった。まだ昔のビルミートとの違いに、巧く付いていけなかったのだ。しかしビルミートがそう言うのであれば、それを止めるわけにはいかなかった。
「分かりました。夕方までは客は来ないでしょうから、皆をここに呼びますね」
「ありがとう。じゃあそれまでに、料理を決めて置くよ」
「はい」
そして彼女は、厨房に戻って行った。その後姿を、ビルミートは
確 と見送った。その目付きは、昔の狙い定めるような虎視眈々としたものではなく、子供の成長を見つめるような、温和なものだった。
恐らく厨房で小会議が開かれていたに違いない。雌鯨が厨房に戻って暫くしてから、レストランの従業員達は、厨房から姿を見せ始めた。そして続々と現れるその姿に、今度はビルミートが驚かされた。
「みんな、久しぶりだな」とビルミートが言うと、全員まだ昔の癖が残っているのか、かなり畏まって返答した。
「もっと力を抜いてくれ。それにしても、中には随分と太った奴もいるんだな。シェフ、昔の倍ぐらいにはなったんじゃないのか?」
「そう、ですね……けどビルミート様には敵いませんよ」
「『様』を付けるのは止めてくれ」
「で、ですが――」
「子供達がいるんだ、余りそういう目で見られたくはない。それに今日は、最初で最後だろうからな」
するとシェフは、ビルミート以外の方に目を向けた。雌鯨から聞いた通り、でっぷりとした雌海豚にはリタの面影が残っており、子供達も、それぞれの特徴を取っていた。
「分かりました。それでは、ビルミートさん、これで宜しいですか?」
「ああ」
そしてビルミートは、次にアルカンの方に顔を向けた。
「アルカン、アルカンだよな? 随分と太ったんだな」
「ああ。だがこれでも、一応体は絞られた方だぞ。何せ牢屋に容れられていたからな」
「そうか。しかしあんなに細く、もやしのようなお前が、今じゃシェフに着実に近付いている。
逞 しいと言えるものじゃないが、随分と立派になったもんだ」「ビルミート、言っちゃあ悪いが、今のお前に精悍さを自論する資格はないぞ」と、アルカンは
咄嗟 に口を噤 んだ。つい昔の、仲の良かった時代のノリで言葉を交わしたが、過去のビルミートの残滓 が残っているかもと思い、図に乗ってしまったことを後悔した。しかし、当の本人であるビルミートは、寧ろ大笑いで明るく返した。
「ぶははははは! それを言っちゃあお前、俺は何も物言えないじゃないか」
ビルミートの反応に、アルカンも顔を
綻 ばせた。もう昔の、親友同士の間柄に戻ったのだ。一度は恨み、ビルミートを陥れようとしていたが、もはやその必要性はなく、アルカンは言葉をつかえることなしに、胸から湧くそれを躊躇いなく喋った。「だがビルミート、私から言わせて貰えば、お前の体は物を言うより、物を食う方にしか意識がいかなそうじゃないか」
「おっ、言ったな? お前だってその内、俺等を抜いて、昔の俺見たいに太り過ぎで動けなくなるぞ」
「けどお前には絶対敵わないさ。一時期はお前も痩せたと聞いたが、また太り始めてるようだし、そういうリバウンドっていうのは、元の体重以上に戻るものだ。寧ろお前が、肉に埋もれて動けなくなるだろ」
「確かにそうかもな。体が動けるよう、食事制限と運動で動けるようにはしたんだが、自宅に籠りきりじゃ、ストレスも溜まるし食うことしかない。そんな状態なら太るのも当然さ。だから俺はな、痩せるのは諦めたのさ。今の俺には妻のリタ、そして子供達がいるし、動けなくても何とかなるからな」
その言葉にリタが抗議した。
「あなた、わたし達をそんな風に見てたの? 少しは努力してよね。こっちの身にもなって欲しいものだわ」
「それじゃあなんで、毎回俺の言う以上に料理を作ってくれるんだ?」
「それは決まってるじゃない、あなたが好きだからよ」
「ほうら。それなら俺のために、もっと奉仕してくれよ」
「もう、ビルミートったら」
しかしリタは、決して嫌そうな顔はせず、寧ろ面白がっていた。
「……そういやビルミート、自宅禁錮で今日は特別に来たと言ったが、そのあとの最初で最後ってのはどういう意味だ?」
「ああ、それか。特別な外出許可は、期間ごとに一回と決まってるんだ。けどお前が言った通り俺は今リバウンドしてるし、医者だって自意識の問題だと、完全にお手上げ状態なんだ。だからこのまま食い続け、太り続けたらどうなる? 今のこの体でも、動くだけでかなりの労力を要する。これ以上体重が増えたら、次の外出時には、殆ど動けなくなってるに違いない」
「な、なるほど。つまり、最後の晩餐ってことで、ここに来たわけか」
「まあそんなところだ。それにここには、昔の仲間がいると話で聞いてな、再会出来ると思ったんだ。それに……」
ビルミートを顔を俯かせた。アルカンとその周りにいた従業員達は、ビルミートが「仲間」と言ったことに驚きつつも、次の言葉が出るまで無言を呈した。
「……全員に、謝りたかったんだ」
「謝る、だって?」とアルカン。
「俺は全員に迷惑をかけて来た。許されることではないだろう。だがそれでもいい、俺の口からじかに伝えたかったんだ」
そして彼は、大きく深呼吸をし、その異形な体を更に大きく膨らませて言った。
「みんな、本当にすまなかった」
まさかビルミートから、こんな言葉が聞けるとは思ってもなかったのだろう。アルカンを含め周りの全員は、どう言葉を返せばいいか分からず、返答に困った。
少し間が空き、ようやくシェフが、ビルミートに答えた。
「ビルミートさん。僕達は確かに、色々と苦労させられました。けどおかげで、こうやって仲間が出来、こういう巡り合わせになったんです。僕達は今、本当に幸せです。そんな道を歩ませてくれたビルミートさんを、僕達は憎んではいませんよ」
「ほ、本当か?」
「はい」
シェフは確と頷いた。それに応じて他の従業員達も、ただ彼に合わせるのではなく、しゃんと心から頷いた。その顔に浮かんだ笑みに、ビルミートは感極まり目をうるうるとさせ始めた。
「悪い、ちと目が……」
「ははは、ビルミート、涙
脆 くなったな」「まあ、な」
そう言ってビルミートは目を、手の甲で恥ずかしながら
擦 った。すると再び、辺りが無言の空気に包まれてしまった。誰も、どうこの空気を切り開くか、相手がやはり元ボスであっただけに、未だ踏ん切りを付け難い様子だった。するとそこに、食事を待ち兼ねたビルミートの子供が言葉を発した。
「パパー、おなかすいたよぉ」
そう催促したのは、子雄海豚だった。種族的にはリタのを受け継いでいるが、体格は完全にビルミートのものだった。子海豚なのに大人顔負けで、普通の子鯨よりも明らかに太っていた。頬も幼少ながら膨れ初め、このレストラン特製の椅子には、既に大人用として鎮座していた。一方子雌鯨の方は、子海豚とは真逆で、鯨なのにやや細めだった。だが元が鯨故、一般的な生きものと比べれば、通常かそれよりも大きかった。
「パパぁ」と、子海豚が繰り返した。
「はは、分かった分かった。それじゃあ料理を注文しようか」
ビルミートは、笑顔を浮かべながら答えた。
「それじゃあたしが、注文を受けますね」と、先程のウェイターとは別の雌沖巨頭が、注文表を片手に前へ出た。
「いや、注文表は要らない。ここにある料理全品くれ」
「ぜ、全品、ですか?」
「ああ。これが最後の外食なら、たんまり堪能することにしたのさ」
するとシェフがこう言った。
「でもビルミートさん、ここにある料理はどれも、太った人達向けに量が多く、全部となると、かなりの量になりますよ?」
「ああ。だが俺を
見縊 ってないか、この体だぞ? だがまっ、もし残ったとしたら、みんなで食べる――ってのは駄目か?」「それならいっそ、みんなで食事会しちゃいます?」と、今度は雄鮫が提案した。
「どうせ客は夕方まで来ません。もうこれで最後なら、その間に店を閉めてパーティをしましょうよ」
「おっ、そりゃ良い考えだね」とシェフが、嬉しそうに頷いた。
「い、良いのか。態々俺達のために?」とビルミート。それにシェフが答えた。
「勿論ですよ」
「本当に、良いのか?」
「ビルミートさんは、例え過去がどうあれ、僕達をこうしてくれた恩人でもあるんです。だから僕達は、あなたを、そしてその家族達を大歓迎しますよ」
その言葉に、ビルミートはまたうるうると来そうになり、それをぐっと堪えた。
「……ありがとう。本当にみんな、ありがとう」
言い終えるか言い終えないか、ビルミートの両目からは涙が伝い落ち始めた。
ファティーズヾランチでのパーティーの時間は、あっという間に過ぎ去った。それもこれも、ビルミートが昔とはあらゆる面で変わり、
諧謔 にも精通していたからだ。昔の堅固な性格は、体とともに変化したようだ。そんなこともあり、最初で最後の、ビルミートとその家族、そして元手下達とのパーティーは笑いと共に終幕した。普段ならシェフに合わせ、皆が普段以上に食べるが、今回は一番の肥満者であったビルミートに食事を合わせたせいで、みんないつも以上に腹部が膨満し、シェフですらその張ったお腹に、ふぅふぅと苦しそうにしていた。しかし、その感覚こそ、そのレストランでの快楽の極みであり、全員最後はその感情に浸り、肥胖者としての栄誉を満喫した。
それから、ビルミートは重い体を持ち上げ、家族と共に自宅へと戻って行った。その後の従業員達は、夕方の僅かな業務時間に仕事をこなし、いつもの様に夕食パーティーを行なった後、帰宅となった。
鯱のアルカンは今、夕食パーティーで腹を大にした状態で帰路に着いていた。リーラ海には、最後の町並みを見回そうと、夕日が暮れ
泥 んでいた。そしてレストランの最寄り駅で電車に乗り、自宅近くのメイルト駅に到着した時には、街灯に明かりが点き始め、人通りも零になっていた。そんな街路を歩いていると、ふと脇道に、懐かしい情緒の明かりが見え、思わず彼はそちらに目を向けた。するとそこには、一軒の屋台があり、そこから漂う
芬 とした匂いに、彼はそれがおでん屋であることを悟った。その時、彼にプルースト効果が発生し、昔のあの老鼠のことを思い出した。まさか、あの老鼠の屋台なのだろうか。そう考えたアルカンは、自然とその屋台へ足を向かわせた。少しして、屋台には見覚えのある老鼠がおり、彼は思いもかけず声を掛けた。
「爺さん!」
「ん? おお、お客さんか。ほれ、そこへ座りなされ。その体じゃ一つのストゥールには収まらんだろう、並べて使いなさい」
アルカンは指示された通り、設置されたストゥールを三つ横に並べ、夕飯で膨れた体をそこに落ち着けた。
「よっ、と……ふぃー、ストゥールに座るのは中々大変だな」
「その体じゃからな、仕方あるまい」
「……爺さん、私を覚えて?」
「ん、覚えてるとな?」
「ああ。昔爺さんの店に来たことがあって、確か、最後の晩餐とかそんなことを言いながら――」
「言わなくても大丈夫じゃ、アルカンじゃろ?」
「えっ、分かってたのか?」
「勿論じゃ。例えそんな体でも、
儂 には分かるんじゃよ、年の功って奴じゃな」「それじゃあ何で、最初知らないような素振りを?」
「そっちが覚えておるのか、試して見たんじゃ」
「それは、年の功というよりかは、まるで海千山千だな」
「ほっほっほ、巧いことを言うの。まあ良い、それでは何を食べるかい?」
「久々におでんを見たら、全部食べたくなったな。けどさっき晩飯食ったばかりだし、それに店的にも、それはまずいよな?」
「別に気にせんで大丈夫じゃよ。どうせ客は殆ど来やしない。そう思ったのなら、食べたいだけ食べなされ」
そう言うと老鼠は、皿と、そしてトングと御玉杓子をアルカンに手渡した。アルカンは嬉しそうにそれを受け取ると、おでん
什器 から次々に具を皿へ移し、そして汁を入れて食べ始めた。凡そ三年振りのおでんに、彼は全てが最高に美味しく感じられ、いつの間にか彼は、汁や具を豪快に飲み食いしていた。
それから一時間経つか経たないか、何十人前とあったおでんの具と汁は、すっかりとその什器から消え、全てはアルカンの胃袋に収まってしまった。そして今日四度目の食事を取ったアルカンの腹は、まるで巨大ジャンボボールのように膨れ上がり、おでん屋台を壁際までに押し出していた。
「げふぅ……いやあ、今日は食った食った」
膨れたお腹をぽんぽんと叩き、
鼕々 たる音を鳴らしたアルカンは、心地好さ気にそう漏らすと、更にこう言った。「それにしても今日は、何でこんなにも腹に物が入るんだろうな」
「それは、久々におでんを食べたからじゃろ。若しくはそうじゃな――」
老鼠が行き成り屋台の下でごそごそやり出したので、アルカンは首を傾げた。すると老鼠は、ある物を手にして立ち上がると、それを彼に見せ付けた。
「――これが原因かの」
それは、単なる空の硝子瓶だった。ラベルも貼っておらず、それが何であるか分かるはずはない。普通なら。
しかしそれを見たアルカンは、瞬時に過去の記憶を甦らせ、そして瞳孔を開いた。
「まさか、それは……それは私が、昔ビルミートに使った奴なのか?」
「その通りじゃ。これを丸々、さっきのおでんに入れたのじゃよ。そしてアルカン、お主は見事にそれを平らげた」
アルカンは何故だとショックを受けた。なるほどだからこうも沢山食べられ、そして苦しさを感じないのか。
様々な思いが、彼の脳内を駆け巡った。しかし考える内に、彼は色々と過去を振り返り、
竟 にはこう悟った。「……そういうことなんだな。何よりも、今まで起こして来た悪事が重要だとあなたは言った。つまり、幾ら平穏になろうと、幾ら今の自分が善行をやっても、過去に犯した罪は消えることはない。だから私は、その処罰をまだ受けるべきだ、そう言いたいんだな?」
すると老鼠は、
徐 に頷いた。「そういうことじゃ。そして特に、お前さんの元ボスであったビルミートにも、同じような処罰が必要じゃと
儂 は思う」「ま、まさかビルミートにも何かやるのか?」
「いいや。彼は運が良い、彼が殺したのは、全員本物の不良じゃった。<ビート>の中には清き心を持つ者もおったが、そのような人達は誰も彼に殺されることはなく、そして罪もなかった。当然のことじゃが、悪が善を殺すのは駄目なのじゃ。
しかしながら、悪同士の揉めごとにはなんら問題はない。お互い悪いんじゃらかの。つまりビルミートに関しては――そうじゃな、一応悪いこともして来たのじゃから、少しは戒めるのも悪くない。しかし彼に対しては、別の人物が咎めてくれたからの、特別にあやつの処罰は無しということじゃ」
その言葉に、アルカンはホッと胸を撫で下ろした。
「良かった」
「ほお、良かったとな?」
「ビルミートは改心した。だからもう、つらい思いはさせたくないんだ」
「じゃがお主は、処罰を受けるのじゃぞ。安堵する余裕はあるのか?」
「私はいいんだ。私は、例えあなたから薬を貰ったとは言え、ビルミートを苦しめた。結果的に内部反乱で、死に直結するようなことをしたんだ。私がこれからも処罰を受けるのは、当然のことなのさ」
アルカンはそう答え、顔を俯かせた。その姿を見た老鼠は、うんと頷いた。
「アルカン、顔を上げなさい」
「はい……」
「実はの、さっきの薬は偽物じゃ」
「え――に、偽物?」
「そうじゃ。あの瓶は、ただの空瓶なんじゃよ。まあ正確に言うのなら、おでん用の昆布だし入れじゃ」
しかしアルカンは、未だ理解出来ずまごまごとした。
「だ、だが、その、だって私は、何十人分ものおでんを全部食べたんだぞ? しかも夕飯だって、がっつり食べて来たのに」
すると老鼠は、年深さを感じさせない大笑いをし、彼の疑問に答えた。
「それなら何故、今は空腹になっておらんのじゃ? お主も知っておろう、あの薬の効果を。もし瓶を丸ごと一つ使ったら、今頃食事が止まらなくなっておるじゃろ」
「た、確かに。しかしなら、どうして?」
「お主はまだ、自分のことを分かっておらんようじゃな」
「……どういう意味です?」
「それなら、一つ問題を出そう。アルカン、お主は鯱じゃ。鯱を英語でなんと言うか、知って
おるか ?」「それは、単なるギャグなのか? ああ、勿論知っているとも。『
オルカ 』だろ?」「他には?」
「他、って?」
「知らんのか? 鯱は他にも『
キラー ホエール 』という言い方があるんじゃよ」「そ、そうなのか? それは知らなかった」
「まあ、そういうことなんじゃよ」
「そういうこと、ってどういうことだ?」
「鯱と言えども、あの大食らいの鯨を食べてしまう奴がいたということじゃ」
「つまりそれって、私が鯨以上の大食家だと言いたいのか? でもその例えは、鯨が小さかったり、他にも集団で襲った場合の話だろ?」
「じゃが中には、たった一人で平らげ奴もおろう。儂が言いたいのは、鯨のビルミートよりもお主は食べられる、そういう末裔だということじゃ」
「末裔って、そんなことありうるのか? そもそもそんな先祖がいるのか、それになんで爺さんがそれを知ってるんだ?」
「質問ばかりでもう疲れた。余り説明しても限界があるじゃろうから、最後のヒントじゃ。お主の同僚達は皆、このリーラ特有の体型――即ち太っておった。しかしアルカン、お主は反対に痩せておった。それが今じゃ、どうして彼らをも越す勢いで太っているのじゃ? そして対等に張り合える胃袋を持っているのか、不思議には思わんか?」
するとアルカンは、少しだけ納得した。前に<ビート>にいた時も、そして今も、同僚達と楽しく食事出来るのには、彼ら曰くかなり早いと言っていた。そういうことなのだろうか。しかしそれでも、腑に落ちない点がまだまだ多過ぎた。
「爺さん、まだ合点が行かない。疑点があり過ぎる」
しかし老鼠は、何も答えず、静かに店を片付け始めた。アルカンは覚束無い気持ちのまま、三幅対のストゥールから重い腰を持ち上げ、店から離れた。
暫くして、店の用品を全て屋台の下に収納した老鼠は、屋台の横にあったハンドル部を地面から持ち上げると、そこに体を入れ、リヤカーだった屋台を引き始めた。
「アルカン、お主の処罰はもう終わっている、これからは人生を全うするんじゃぞ。それと、どうやら気掛かりな点があるようじゃが、そんな事を考えるのなら、まず先に自身の体を心配すべきじゃと、儂は言っておくぞい」
「は……はは、ははは。そうだよな、こんな体であれこれ心配するなんて、何か矛盾してるよな。でも、せめてこれだけは教えてくれ。あなたは一体何者なんだ?」
「儂か? 儂はただの、しがないおでん屋の鼠じゃよ」
そう言い残し、老鼠はリヤカーを引いて大通りの方へ出ると、左へと曲がった。アルカンも帰路が同じ方向だったので、少し遅れてそのあとを付いて行った。しかし大通りを左に曲がると、既に老鼠とリヤカーの姿は無く、そこには静かな夜道だけが広がっていた。
「おかしいな、別に霧とか出てないし、あの明かりは目立つはず。そんなに私は、歩くのが遅かったのか?」
老鼠に対しての、また新たな疑問が湧き上がった。しかしアルカンは、先程の老鼠の言葉を思い出し、自嘲しながら思考をやめると、再び自宅へと歩き始めた。
街灯に照らされた夜道を進むアルカン、すると突如フラッシュが焚かれ、彼は思わず目を瞑った。
「アルカンさんの現在の日常、良いネタになりそうね」
「……ラットか?」
「覚えていてくれたのね、嬉しいわ」
急なフラッシュに視界がぼんやりとしていたが、徐々に目を慣らし、そして面前にいる雌鮫を捉えた。その姿にアルカンは「んっ?」と思った。
「ラット、でいいんだよな?」
「勿論でしょ。他に誰がいるっていうの?」
雌鮫ことラットは、両手を腰に当てると、ぷっくらした頬を膨らませた。
「いや、私が言うことではないが、随分と太ったなって」
「まぁ! それはレディーに対して失礼なんじゃないの? まっ、ほんとのことだから否定はしないけど」
「そういえばさっきのタイトル、新聞に載せるのか?」
「いいえ、もう記者は辞めたの。あのビルミートの一件で、吃驚するくらい報酬が貰えて、あっという間に上へと昇進よ。今はもう、あんな面倒なことはしなくていいのよ」
「面倒って、結構好きにやってたじゃないか」
「あれは生きる為よ。いい特種が入っても、食べて行くのは大変なのよ」
「でも今じゃ、寧ろ食べ過ぎだな」
「あはは、アルカン、あなた随分と変わったのね。昔はそんなジョーク言えなかったのに」
「私は変わったんだよ、この体と同じさ」
そう言って彼は、膨らんだお腹を豪快に叩いて見せた。するとそこを中心に、全身の肉という肉が
漣 のように揺れた。「そういうお前も、本当に変わったんだな」
「体のこと? ここリーラじゃ、そんなこと気にする必要ないでしょ。それに前まではひもじいな生活をしてたし、今こそ存分に楽しまなきゃね」
そしてラットは、カメラを鞄にしまいこんだ。
「さてと、あたしはこれから、特大のフォアグラステーキを食べに行くのよ。羨ましいでしょ?」
「そうか? 私は口に入れば何でもいいからな」
「さすが、その体だけあるわね」
「それにしても、一人で食べに行くのか?」
「ええ、そうだけど」
「寂しくないのか?」
「あら、あたしの心配をしてくれるなんて嬉しいわ」
「まあ別に、問題がなきゃいいんだけどな」
「……そうね。じゃあ良かったら、一緒にレストランに行かない?」
「やっぱり淋しいんだな。でも私は、さっき二度目の夕飯を食べたばかりなんだ。それにこんな体だし、さすがにこれは引くんじゃないのか?」
「そんなこと言って、色々と物言ってるってことは、やっぱり行きたいんじゃない」
「はははは、ばれたか。フォアグラは一度も食べたことないからな」
「じゃ、今日はあたしが奢るから、一緒に食べに行きましょ」
「でも、本当にいいのか?」
「勿論よ。だって一人じゃ淋しいからね」
「ははは、なるほどな。それで、因みに場所は何処なんだ?」
「新しく出来た所でね、メイルト駅から徒歩五分。ここから北に行ってあと数分って所ね」
「なんだ、私の家の近くじゃないか」
「そうよ。あなたの家を通り過ぎた辺りかしら、あなたはそっちへ行ったことがないのね」
「ああ。私は家にいるか、職場にいるかだからな」
「あはは、確かにそのようね。それじゃあ、こんな所で雑談するのもあれだし、早速行きましょっか」
アルカンとラット二人は、新しく出来たレストランへと、談話しながら向かって行った。
新しく出来たレストランで、最高級のフォアグラステーキを鱈腹食べた鯱のアルカン、そして鮫のラットの腹は、見事に膨れ切っていた。歩く動作や表情にも、その具合が現れる程だ。
「ふぅ、うっかり食べ過ぎちゃったわね。時間も遅いし、これじゃあもう電車は無いわね」
「ラット、君の家は何処にあるんだ?」
「あなたと丁度逆、ファティーズヾランチがある方よ」
「それだとここからは遠いな。……良かったら、私の所に泊まっていくか?」
「あら、嬉しいわ。でも変なことは考えてないでしょうね?」
「仮に考えてたとして、私のこの体で何が出来る? 精々君を押し潰すことぐらいだろ」
「うふふ、本当に面白いこと言うわね。それじゃ、遠慮なく泊まらせて貰おうかしら」
「そうしてくれ」
知らぬ内にアルカンは、追っ掛け記者であったラットに、何処となく好意を抱き始めていた。実は本当は、昔から彼女のことが気になっていたのだろうか。
しかしそんな考えを、彼はすぐに鼻であしらった。折角の楽しい時間を、こんな無益な考えに利用するのは馬鹿げていると、そう考えたのだ。そして彼は、彼女を自宅に招き入れると、共に一夜を過ごした。彼の言葉通り、そこでは何も起きなかったが、見えない距離感は急速に狭まり、お互いのプライベートゾーンが交じり合い始めていた。
夜中、ひっそりと佇む屋敷が、更にその存在感を消すこの時間に、老鼠はその屋敷内で、誰かと言葉を交わしていた。
「彼があの、呪われた金貨を持ったキャプテン・ヒューゴの息子なら、それが原因ではないのか?」
「確かにそうとも言えるんじゃが、やや初期速度に差があるんじゃ。恐らく彼が、あの
薬 を試飲、若しくは舐めたものと思われます」「まああの状況なら、それは一石二鳥であるからな。だがそれだけで、明確な差が出るものなのか?」
「先程御主人様が述べた通り、素質はあのキャプテン・ヒューゴの物じゃ。恐らくそれの影響が相乗効果を齎したのじゃろう」
「なるほど、な……よし、今日はご苦労だった。次に備えてゆっくりと休んでくれ」
「分かりました、御主人様」
老鼠は踵を返し、暗がりの部屋を去って行った。
見えない大富豪 -港町リーラ編- 零落編完結