雄蜥蜴ブロームと雄鷹フランジュは、アクロの部屋に入りました。するとそこには、アニーモ製ベッドを三つ横に並べ、その中央の上で鎮座する雄鯱の姿がありました。
「……あ、アクロ?」とフランジュが、目を円くしながら尋ねます。ベッドの上の雄鯱は、ゆっくりと、ピザを頬張りながら頷きました。
ブロームも、驚きを隠せない模様です。なんといっても、雄鯱のアクロは、ブロームやカーシェをも軽々凌ぐほど見事に——果たしてその言葉が適切かどうか分からないほど、ぶっくぶっくに肥え太っていたのです。
中央のベッドに座る彼の頭は、蛙のように横に伸び、たぷんたぷんと頬は、持ち上げられた首(もしくは胸)の肉で持ち上げられています。更にそれを持ち上げるのが腕で、それほどまでに膨らんだ腕は、肘や手首などが完全に脂肪でうずもれていました。
そんな巨大な腕を支えるのは脇腹で、まるで掛け布団を横にしたように広がり、両側のベッドを見事に占領していました。お腹はぐんぐんと前に伸びて、枕元もとに座っているのにも変わらず、それはベッドから垂れ下がっていたのです。そんな腹部に足は百度以上開いて、お腹を出来る限り横に広げてあげようとしていますが、座りっぱなしの太腿は、脇腹を支える形で見事に広がり、敷布団として、脇腹とともに一つのベッドを形成していたのです。
こんな姿は見たこともない、部屋にやって来た二人はそう思いました。もはや関節や節目がどこにあるのか分からず、鯱特有の白黒の模様は、目の辺りにあるもの以外、完全に形を乱しています。だが逸早くブロームが、気持ちを切り替えました。
こんな姿は見たこともない——それを言い換えると、今までここまで太った人はいないという事になります。
「アクロ、お前……」
「ご、ごめん……やっぱりこんな姿、醜いよね」
「いやいや、その逆さ!」
アクロは驚き、食事の手を止めます。
「こりゃお前、大変なことだぞ。恐らくアニーモ一の大巨漢だ」そういってブロームは、アクロに近づきます。そしてベッドから垂れ下がったお腹を優しく触りました。
「おお、柔らけえ。ぶよんぶよんじゃないか」
「あ、あの、その……ブローム、君?」
「ブロームでいい。なんだ?」
「あの、あのさブローム。僕の体、気持ち悪くないの?」
「一瞬は驚いたが、しかしこれは相当立派な体だぞ」
「本当に?」
「なんで疑うんだ? アニーモ出身でないとは言え、ここのことは重々知ってるだろ」
「そう、だけどさ……だって、身動きも取れないし、それに見てよ、食事を止められないんだ」
確かに彼は、既に食事の手を再開しており、Lサイズのピザ箱を簡単に空にしていました。彼は、右の脇腹に空箱を乗せると、左の脇腹にたんまりと乗せられたピザ箱を手に取り、再びピザを食べ始めました。
「ずっとずっと、僕は怖かったんだ。だって中学生の時、ブロームの次に太っているのは僕。だけどその差は全然違ってた。そっちは普通に歩けてたし、でも僕は体が重くて重くて、すぐに息も切らすし、だから毎日の行き帰りは、必ず専属の運転手にトラックの荷台に載せて貰ってた」
「それはなんだ、俺に自慢してるのか?」ブロームは、昔のように顔を顰めてしまいました。
「だって、見てよこの体! 今だって君はこうやってここまで自分の足でこれたのに、僕は歩けないから仕事も出来ない、家に毎日食事して、ぶくぶく太ってばかり——僕に何が出来るって言うの!?」
アクロの言葉に、我慢をしていたブロームでしたが、ガリっと歯を食い縛ると、彼はその巨体を勢い良くアクロのベッドに載せ、そしてアクロの肉付いた顔を、思い切り引っ叩きました。それはそれは、この部屋に音が響くほど、大きなもので、思わずアクロは口の中に入れたピザを吐き出してしまいました。
「なんだよ、俺はずっと苦労してここまで太ったって言うのに、お前は何もせずに太っていたなんて……専属の運転手だぁ? そんな裕福な環境にいて愚痴を零すなんて!」
発狂したブロームを、後ろからフランジュが慌てて止めに掛かりました。
「やめろよブローム! もう大人だろ!?」
「だ、だけど! こ、こいつは——」
後ろを振り向いたブロームは、ふと、フランジュ以外の人物が目に入りました。それは、アクロの父だったのです。アクロの父はこの状況に、どうして良いのか分からず立ち往生していたのです。何せ彼は鯱とは言え、体型はアニーモ的に痩身であり、暴れる三百キロの蜥蜴を止められるわけはないからです。
そんな父親を見て、ブロームはようやく我に返り、気まずそうにベッドから降りました。
「すみません……ついさっき大丈夫と言ったばかりなのに、俺は……」
「い、いや、こちらこそすみません。ブローム君の気に触れることを言ってしまったようで」
「その……言い訳がましいかも知れませんが、やっぱり俺、アクロが羨まし過ぎたんです」
「さっきも聞いたんですが、本当にそうなのです? 息子のこの体を見て、そういう風に思えるのですか?」
「少なくとも俺はそう思いますし、初めは戸惑うかも知れませんが、恐らくアニーモ中が羨望の眼差しで見るでしょう」
するとここで、アクロが口を開きました。
「本当に、そうなの?」
ブロームがアクロの方を振り向きます。一瞬アクロはドキっとしましたが、ブロームの顔は既に穏やかになっていました。
「ああそうだ。お前の体は、このアニーモでは誇りに思ってもいいんだ」
「でも……でも、僕聞いたよ。アニーモのしきたりを表すこの歌。『雌は篭って身を肥やし、雄は働き身を肥やす』。つまりこれ、雄なら仕事をしないといけないんでしょ?」
「まあそうだな」
「じゃあ僕は、どうすればいいの? だって……身動きが取れないんだ」
「一歩もなのか? ベッドから起き上がったりは?」
ブロームの質問に、アクロはピザを食べるのを止めると、ふうーっとため息をつき、それから数回深呼吸をしました。
そして彼は、次に思い切り体を横に振りました。すると全身のあらゆる肉という肉が一瞬宙に舞い、そして「べたん!」と再びベッドや下段の肉に落ちました。何回も何回も、アクロは「ふんぐ! ふんぐ!」と必死な声を上げ、ベッドがぺしゃんこになるのではないかと思うぐらい、豪快にばたんばたんと鳴らしました。
十回ほど、アクロは頑張りましたが、驚くほどに、全くもって中央の枕の位置から、微動だにしなかったのです。しかしアクロの額からは、既にぽたぽたと汗が滴りおち、気が付けば全身から凄い熱気が溢れていました。呼吸もぜえはあぜえはあと、物凄い喘ぎ方をしています。所々で唾を飲み込んで「んぐ」っと止まっても、再び激しい呼吸が繰り返されます。
「だ、大丈夫か?」とブロームが、さすがに心配しました。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ……ふぅーー……な、なんとか……」
どうにか、数分間じっくりと呼吸を休ませたおかげで、気息はなんとかある程度まで戻りましたが、その頃には熱気も汗もピークに達し、体の脂肪が入り乱れたある所では、小さな窪みに池のように汗が溜まっていたのです。
「ふぅ、ふう……こんな、感じで、駄目なんだ」
「そうか……しかしここまで太ったのは、本当に凄いな」
「そ、そう?」
「ああ。だが確かに、動けないとなると、色々と問題はありそうだな」
ブロームは、とりあえずアクロの呼吸が整うまで待ちました。
息切れが治まったアクロは、早速ピザ箱の隣においてある一ガロンのリンゴジュースを手に取り、豪快にがぶがぶと飲み干します。そして再び、ピザを食べ始めました。それを見計らったブロームは、再びこう尋ねました。
「なあアクロ。お前何か、趣味とかやってることはないのか?」
「うーん、一応小説は書いてるんだけど——動けないから、これぐらいしかやることがなくて」
「小説か……応募とかはしてるのか?」
「つい最近、二つほどしたよ。けどまだ結果は分からないんだ」
「そうか。んじゃあ仕事は、とりあえず小説家ってしておけばいいな」
「ええ!? でもだって、仕事になるかどうか分からないのに」
「一時的な肩書きだけでも持っておけば、気持ちも楽になるだろ?」
その言葉に、アクロは彼が本当に気遣ってくれているのだと分かり、内心で大いに嬉しくなりました。今まで、誰かが手を貸し手くれたことは幾度となくありました。しかしそれは、アクロの肥満体に対しての助け舟であり、彼の精神面に於いては素通りしていたのです。
しかしこの時、ブロームという同級生が、しかも恐れる存在であった彼が、今心の中に手を差し伸べている——これほどまでの気持ちは、生涯で初めてだった。
「……うん。ありがとう、ブローム」
ブロームはうんうんと頷きました。
「となると、次はお嫁さんかぁ」
フランジュがふと、そう漏らしました。確かに、雄は「働き身を肥やす」存在であるが、アクロはそうではありません。誰かの手を借りて働く必要があり、それは彼の将来の妻となる人物の手なのです。しかし妻という雌は「篭って身を肥やす」存在であり、動いて脂肪を燃焼させてはなりません。
あくまでもこれらは、掟のような固いものではない慣例ではありますが、アニーモでは百パーセントに近い人たちが、この習わしを守っています。そんな中、逆転したような関係を許してくれる存在があるのだろうかどうか——
況 してや、アニーモ最強に近い超極肥満体のアクロを婿と出来るような、それに値する存在がいるのだろうか。かなり難しい所であり、ブロームとフランジュは考えに耽ります。
「そういえば——」
ブロームが静かに切り出します。
「彼女も、俺が知ってる中では一番に近い肉体だったな」
「彼女?」とフランジュが聞き返します。
「ああ。……良し、物は試しだ、やってみよう」
「まさか、息子に適したお嫁さんを知っているのですか?」
アクロの父親がブロームに近付きながら問います。その双眸には期待感が満ちていました。
「はい。ただ俺も、ここまで太った人は見たことがないんでね。でも、やってみましょう」
「ブローム、本当にいるのか?」
フランジュは案じ気味でしたが、ブロームは思いの他自信に満ちた表情で頷きました。
そしてブロームは、アクロとその父に一旦別れを告げると、フランジュと共にこの家を出て行きました。勿論出口までは父親が運転するトラックに載せて貰い、それからはブロームが先陣を切ってフランジュを引き連れ、ある場所へと歩き始めたのです。