このシリーズ、なんかまた膨張系になってしまいました。もし次を書くなら、今度こそは肉塊りますね orz
というか色々と他の方の作品を見ていると、今の自分は昔のようなポップな感じがないので、そういうのも何処かで出したいですね。
因みに、今回の話は、実際に体験したネタを幾つか用いて見ました。
戒めの言葉、落ちてはならぬ場所——ボトムレス・デプス
・第二編
世の中には、何事にも自分の感情、欲を剥き出しにする人達がいる
もしそんな彼らが、自分の望み通りの願いを叶えられたら?
満足出来るのか、はたまたそれが仇となるのか……
今回の物語は、そんな猫夫婦のお話です
†箍のない欲槽の夫婦†
「ちょっ、きったねえなあ」
バス内で、一人の男猫が言った。混雑し合い、さながら満員電車のようである。そんな中にいた彼が怒ったのには、隣にいる体調の悪そうな青年が咳をしたためだった。
「すみません……」
「きったねえよ、つばが飛んだじゃねえか」
「すみません……」
青年は何度も謝るが、その度に猫は、しつこく愚痴を漏らす。周りも黙っているしかなかった。関わるのが怖いのだ。過去にはバス内で、携帯電話の通話を注意した男が、された側に逆ギレされ殺されるという事件があり、命と比べらればどうしても黙秘してしまうのだ。
次のバス停に着いた時、青年には嬉しいことに、この猫が下車するところであった。青年は出来る限り彼と触れないよう、体を反らして降りる彼との接近を免れようとした。
だがその際にも、猫は何もしなかったわけではなく、青年の方を振り返りながら「あいつ、唾飛ばしやがって」と、愚痴をこぼさないことはなかった。
一方その頃、別の場所では、ある人物が似たようにいちゃもんをつけられていた——むしろこっちの方が、あくどくなりつつあった。
発端は、電気店内でのこと。商品が陳列されている横に丁度レジがあるため、そこの商品を品定めしている人がいる場合、レジを使用しなければならない店員は、客に「失礼します」といって通らなくてはならないのだ。だがそうなることは見て分かるものなので、客達はそれを定石として一旦横に動く、暗黙の了解がそこにはあったのだ。
しかし客は千差万別。たまたまこの店を利用した人達にとっては、そのことを少し不快に思うかも知れない。でも本来なら、それで終わるはずである。
だが今回は、それ以上の悪質クレーマーがやってきたのだ。
「ちょっと後ろ、失礼します」「後ろ、通させていただきます……」
こんなことを計三回、店員に言われたとある女性客の猫。それから今度はレジ内の別の店員が、そこから出ようと声をかけた矢先の出来事だった。
「後ろ、失礼しま——」
「うるさいわね! 静かにしてよ!」
「申し訳ございません、外に出なくてはならないので」
「うるさいっていってるでしょ!」
「ですが——」
「少しぐらい待ったらどうなの!?」
渋々店員は、レジ内で残ることに。この時店員は思ったに違いない。触らぬ神に祟りなし、と。そして隣でレジを担当している先輩に向かい、拳を振るわす仕草をして、静かな笑いを取って鬱憤を晴らした。
しかしながら、これだけで事は収まらなかった。それは、猫が商品を見終えたあとのことだった。別に何も手にしてはいないのに、彼女はその場を去らず、そのままレジへと向かったのだ。そして先ほど外に出ようとした店員と、彼女は対面し合った。
「ちょっと、責任者呼んで頂戴」
「はい?」
「だから責任者を呼んでって言ってるのよ」
「その前にまず、何か悪いことでもしましたでしょうか?」
「あんたじゃ話にならないわ。いいからさっさと早く責任者を呼んで!」
「無理です」
「いいから呼びなさいよ!」
「それは出来ません」
「あっそ、ならいいわ。この店の名前はなんていうの?」
店員は、店名を正確に、はっきりと言った。
「分かったわ」
そして猫は、憤って店を出て行った。店員は首を傾げ、苦笑気味に先輩と顔を見合わせた。
だがその後、この猫がクレームをしたようで、その店員は彼女の自宅まで謝罪に行くことになってしまった。しかもその時彼女は、無理矢理後ろを通ろうとして手を出したなどと、勝手に嘘を加えていたのだ。しかしながら、例え店員が手を出してなくとも、その証拠が防犯カメラにきっちりと残っていたとしても、謝罪は、店の悪口を言われたくないという本部からの判断だった。
「たく、本当に汚ねえよ。唾飛ばしやがったんだぞ、あのガキ」
あのバス内での男は、まだ文句を口走っていた。だがこの男の妻も、不平たらたらである。
「私もよ
ロップ 。ほんと嫌になって、早速本部に電話してやったわ!」「
デザイア みたいに、俺ももっと訴えた方が良かったな。クソ、あの忌々しいガキめ!」そして今日も二人は、自らをカリカリとさせながらストレスを発散するかのように、一日を過ごすのであった。
ある日のこと。あの女猫ことデザイアは、電車に乗ろうとプラットホームに立っていた。そして停車した電車の扉は、優先席の近くにある一両目の端だった。
彼女は、マナーを守らず堂々と扉の前に立ち、降りる人優先なんてなんのその、扉が開くなり、無理矢理中に乗り込もうとした。すると案の定、老人とかなり豪快に接触して、お互い横に大きく跳ね飛ばされてしまった。
「なっ、なんなのよじじい!」
「あ痛た……何とはなんぞい、儂はただ、電車から降りようとしただけじゃ。そもそもお主が、降りる人を待たずに乗り込むのが悪いんじゃろ」
そう言い返したのは、襤褸のフードを被った老鼠だった。それを見たデザイアは、慌てて接触部分を手で払い始めた。
「いや、もう、汚いじゃない! 私の大事なワンピースが穢れちゃったわ、どうしてくれるのよ!?」
この光景を一部始終見ていた乗客達は、この女に対して少なからず、好意を持つことはないだろう。
「あんたね、何かお返ししなさいよ!」
「全く、最近の若いもんは、そんなことで怒るのかい?」
「いいから早くしなさいよ!」
すると老鼠は、渋々懐から、小さな小瓶を取り出した。
「何よこれ、化粧水?」
「お主はどうやら、自分勝手過ぎるようじゃ。そこまで自分の願いを叶えとうなら、この薬を飲むのが良かろう」
「大きなお世話よ! 何、この薬を飲めば、私の願いが叶うって言うの?」
「嘘じゃと思うのなら、飲めば良かろう。安心せい、毒は入っておらんよ」
「ふん、そんなお伽噺——」
あまりに声を張って怒鳴り散らしていたので、彼女本人は気づいていなかった。既に発射ベルは鳴らされ、時間一杯と扉がバンと閉まったのだ。老鼠は既にプラットホームに降りていたため、これ以上の罵倒は不可能だった。
デザイアは、最後まで老人を睥睨しながら、電車に運ばれていった。
そんな車内で、不思議と彼女は、貰った小瓶を確りと懐にしまっていた。なぜだかは分からないが、この薬には、犇々と夢を現実として認めさせるような、謎めいた魅力と魅惑があったのだ。
デザイアが自宅に帰宅すると、夫がいつものように貧乏揺すりをしながら、カリカリとしていた。
「なあ、また嫌な目に遭ったぞ。ババアがいきなりぶつかってきて、汚い体で俺の服を汚したんだ。見てみろよ、この臭い布切れ」
「全く、私もよ。でも代わりに、見返りにこんなものを貰ったわ」と彼女は、老鼠から貰った小瓶をテーブルに置いた。
「相変わらずお前には感服するよ。で、なんなんだ、その無色透明な液体は?」
「分からないわ。でも一応貰って来たの」
「憂さ晴らしに毒を渡されたんじゃないのか?」
「大丈夫よ。もしそんなことをしたら、あの鼠を死刑にしてやるんだから。顔もちゃんと覚えてきたわ」
「そうか。んで、どう使うんだ?」
「飲むらしいのよね」と彼女は、蓋を回して取った。
「本当に大丈夫なのか?」
「まずは確かめる程度よ」
デザイアは、ぺろりと舐める程度に中身を飲んだ。ほんのりと甘いが、ジュースというにはほど遠いそれには、どうやら毒はなさそうだった。そして彼女は、そのまま謎の薬をぐびぐびと飲み干してしまった。
「おいおい、無茶するなよ」そう夫が言ったが、彼女本人も、この自分の潔さにはさすがに驚いていた。幾ら形振り構わず行動に出る彼女も、未知の物を口にするのはかなり気が引けることである。
しかし、飲み終えて見れば、そこには別段変わらぬ彼女がいるだけであった。
「……何も起きないわね」
「良かった。今後は注意しろよ」
翌日。近くの公園でデザイアは、子供達の面倒を見ていた。実は彼女の職業は、養護施設の職員なのだ。身寄りのない小学校低学年から高学年までが、彼女の担当であった。しかしながら彼女の性格では、無邪気な彼らに好意を寄せることはそれほどない。
彼女は、特に子供達の面倒を見ることなく、適当に辺りの景色を傍観していた。だがその時、高学年の子供達が悪戯で、水飲み場の蛇口から、出口を塞いで水鉄砲のように勢いよく放水を楽しんでいると、偶々近くを通りかかった中年女性に、その水が豪快にばしゃりとかかったのだ。
女性は、たちまち子供達に駆け寄ると、彼らを厳しく叱り付けた。そして保護者を求めると、子供達は公園の中央で空を眺めているデザイアを、一同に指で指した。
早い足取りで、女性は彼女に近付くと、真っ先にこう言った。
「あなた、あの子供達の保護者でしょ?」
「はい? ……ええ、そうだけど、それがどうかしました?」
「『どうかしました?』じゃないわよ! あの子達が水飲み場でふざけていたせいで、服がびしょびしょになっちゃったのよ。見なさいこれ——それにあぁ、あの子ら全く反省してないじゃない!」
女性が後ろを振り向くと、先ほどの悪ガキ達がまた、同じ遊びを繰り返していたのだ。どうやら一寸たりとも後悔していないようで、女性は一層デザイアに詰め寄った。
「ちゃんと注意しなさいよ。いいですか、保護者なら、確りと子供達の面倒を見て貰わないと」
「別にいいじゃない、子供なんだから」とデザイアは、ぶっきらぼうに答えた。さすがにこれには、女性も大激昂。道徳的に考えれば当然ではあるが。
「あなたね、そんなんだから躾がならないのよ! いいこと、今回の件はちゃんと謝罪して貰いますからね。それであなたの名前は?」
「全く、一々話にならないわ」
「それはこっちの台詞よ!」
「うるさいわね、さっさと失せなさいよ!」
デザイアが叫ぶと、途端に相手の反論が止んだ。だがなくなったのは、それだけではなかった。目の前にいたはずのあの中年女性が、ぱったりと消えていたのである。彼女はさっと辺りを見渡したが、何処にもその女性の姿はなく、子供達が水遊びで周りに迷惑をかけているのが、際立って浮き立たされた。
気持ちを落ち着かせよう、そうデザイアは深呼吸をすると、子供達に歩み寄り、施設に戻るよう彼らに告げた。
仕事を終え、自宅に帰り着いたデザイア。未だに公園での有耶無耶が解消されず、彼女はストレス発散と同様にして、夫のロップにその出来事を語り尽くそうとした。だが居間には、いつもいるはずの彼がおらず、デザイアは仕方なく、靄掛かった気持ちを抱えたまま食事の準備に移ろうとした。
刹那、電話がりりりと鳴り、彼女は手早くそれを取った。
『もしもし、ロップさんの家ですか?』
「そうだけど、何か用?」
『もしかしてあなたは、彼の奥さん?』
「ええ」
『こちらは警察署です。あなたの旦那さんが昼、通行人を殴り重傷を負わせたとして、現在取り調べを受けているんですよ』
その言葉に、デザイアは思わず目を見開いた。そして言下にこう尋ねた。
「夫は今、何処にいるの!?」
彼女は、警官から警察署の場所を聞くと、すぐさまそこへと向かった。
警察署に着き、教えて貰った取調室の前まで来ると、そこには包帯にシーネを付けた男の蜥蜴と警官が、並んでカウチに座っていた。
「ちょっと、ここがロップのいる場所?」
「はいそうです。あなたがデザイアさん?」警官が答えた。
「そうよ。ねぇ、どういうことなの、説明して頂戴」
すると、奥に座っていた蜥蜴が、そのままの体勢で口を開き始めた。
「聞いたぞ、あんたがあいつの妻なんだってな。あいつはな、ぶつかるや否やいきなりいちゃもんをつけてきて、仕舞いには俺を殴ったんぞ。見ろよこの腕、複雑骨折だってよ。治療費とかちゃんと払ってくれるんだろうな?」
「なんでよ、あなたにも問題があったんじゃないの?」
「なっ——お前、いい加減にしろよ! こっちはな、怪我を負いながらも態々ここまで来たんだぞ! その言いぐさは一体なんなんだ、え!?」
「知らないわよ! 大体ね、あんたも一々うるさいのよ」
「て、てめえ! 女だからって図に乗ってんじゃねえぞ!」
「ふん、何よ! あんたなんかね、どっかに消えてしまえばいいんだわ!」
その刹那。デザイアの目の前にいた蜥蜴が、パッと姿を消したのだ。またもや驚いた彼女は、目を瞠り、そして瞬いたが、状況は一変して変わらなかった。
彼女は、彼の隣にいた警官に声をかけた。
「ね、ねえ……今の、見た?」
「えっ、何がです?」
「今そこで人が消えたじゃない! さっきまであなたの隣にいた蜥蜴の人が」
「蜥蜴? いや、私の隣には誰もいないじゃないですか」
「だ、誰も、いない?」
「ずっとそうですよ。……大丈夫ですか?」
デザイアは、錯乱した脳を落ち着かせようと、少し間を開けてから頷いた。そうよ、今肝心なのは、夫がしでかしたこと。確か、傷害罪的なものだったわよね。
そして彼女は、警官にこう尋ねた。
「ごめんなさい、私、どうも混乱してるようだわ。それで、何があったんでしたっけ?」
「お気持ちは察します。では、もう一度言いますね。あなたのご主人は、器物損壊罪で、昼に逮捕されたんですよ」
「き、器物損壊?」
一語一句、警官から丁寧に説明されたため、聞き違いではないようだ。そして相手の顔も真剣で、ふざけているわけでもなさそうだ。
しかしながら、明らかに先ほどとは違う罪名。一体どういうことなのかと、彼女は思わずこう聞いてしまった。
「ど、どういうことなんです?」
すると警官は、彼女の意図とは違う意味でその言葉を捉え、こう説明した。
「コンビニ店員の証言に寄りますと、ご主人はお金だけをレジに置いて、商品をスキャンさせず、そのまま持って行こうとしたそうなんです。店側は商品管理として、バーコードのスキャンを義務付けており、そのため店員が、ご主人に二度ほど商品のスキャンを要求したところ、突如ご主人が怒り出し、その商品を床に叩き付けたそうなんです。
商品は不良品となり、店員は置かれたお金をそれ用の代金にしようとすると、ご主人はその金を返せと要求して来たのです。しかしそれを店員が拒むと、ご主人は店内で大暴れし、それで捕まったんです」
警官が説明を終えると、取調室から、尋問者が現れた。
「防犯カメラが決定的証拠でありますが、どうやら罪人は一切の反省をしていないようで——ん、こちらの方は?」
「彼の妻ですよ」
「ああ、あなたが……この度は、色々と大変そうで」
「え、ええ……」
「よろしかったら、中で少し話し合われますか? 反省の意図が見えないので、これから拘置所に留置することになりましたので」
「そ、そんな……分かりました、それではお願いします」
デザイアは、尋問者に手で示され、取調室の中へと入って行った。
そこには、ドラマなどで見るようなスタンドライトが置かれたテーブルがあり、それを跨ぐようにして二つの椅子がある。その一方である奥の方に、彼女の夫、ロップが堂々と座っていた。
「……ロップ、なんてことしてくれたのよ」
「知らねえよ。大体さ、あの店員がおかしいんだ。俺は金をちゃんと置いたんだぞ、後は同じ商品をスキャンすりゃいい話じゃないか」
「でもね、裁判にかけられたらどうなるのよ。それほど金銭面に余裕があるわけじゃないのよ」
「なんだよデザイア、今日はやけに控えめじゃないか。こういうのは、がつんと分からせるのが一番なんだよ」
「ねぇ、お願いだから少しは反省して頂戴」
「ふんっ、ふざけるなよ。なんで態々謝らなくちゃならないんだ? そんなの冤罪だろ」
「一つ言わせて貰うけどね、ロップ。もし警官の言うとおりなら、あなたのは冤罪でもなんでもないわよ」
「おいおいどうしたんだ? いつもは俺に肯定的じゃないか」
「私にだってね、色々と悩み事があるのよ!」
中々分かってくれない夫に、彼女は苛立ちを隠せず、つい怒鳴ってしまった。すると彼も、いつものように認めてくれない彼女に対し、早くも怒り心頭に発していた。
「いい加減にしろよ。こっちにだってな、プライドっつうもんがあるんだよ」
「何よ! 私だってあなたのためを思って——」
「思ってるんだったら俺の気持ちも分かるだろ!」
「いい加減にしてよ! もううんざり。あんたなんか、疾うに死んでれば良かったのよ!」
たまらず感情で発してしまったその言葉。言い終えた直後に、彼女は今までの怪現象を電光石火の如く振り返り、そして「あっ」ともらした。
だが、既に目の前には、誰もいなくなっていた。取調室で、デザイアはただ一人、その場にいたのだ。
「……う、嘘でしょ? ろ、ロップ?」
呆然と辺りを見回す彼女。しかしやはり、そこには誰もいない。
するとその時、がちゃりと扉が開けられ、部屋に警官が入って来た。先ほどカウチに座っていたあの警官だ。
「デザイアさん、“また”ここにいたんですか?」
「あ、あ、あの……その、ロップは何処に?」
「ああ、可哀想に、また幻覚を見てるんですね。そこまで夫の死を受け入れられないのか……とりあえず、一緒に外に出ましょう」
優しい言葉で警官に誘導され、デザイアは夢見心地のまま、警察署の外へと出た。そしてそのままの足で、彼女は自宅へと帰宅した。
それからしばらくは、誰もいないリビングで立ち尽くしていたが、途端に何かを思い出し、彼女は家の中を駆け始めた。
「もし、もし夫が亡くなったのなら、何処かに仏壇があるはず……!」
色んな部屋を巡り、隅から隅まで目を配る彼女。そして最後にやって来たのは、夫のロップの部屋だった。
彼女は、ばたんと豪快にその扉を開け放った——そしてふと、彼女の勢いはそこで衰え、遂には力なくして、その場にへたり込んでしまった。
目の前には、夫の遺影と共に、線香が煙る仏壇があった。そう、デザイアの言葉がまたもや現実となり、今度は夫が、死んでしまっていたのだ。
「そ、そんな……ロップ……」
彼女は、目にいっぱいの涙を湛えていた。そもそも、なんでこんなことに?
そんなことを考えていると、彼女はハッと、あの電車でぶつかった老鼠のこと、そして彼から薬を貰った(正確には脅し取った)ことを思い出した。そうよ、全てはあの老人の薬を飲んでから——
沸々と湧き上がる怒り。彼女は、高ぶったその感情とともに、心から大きく叫んだ。
「あのクソオヤジ、よくも私の大切な夫を奪ったわね! あんたなんか殺してやる、この手で殺してやる!」
だがその直後、デザイアは再び迂闊に言葉を発したことに、何やら蠢く不安を覚えた。ちょっと待って、その声も現実になるとすれば……
矢庭に彼女は、自分の部屋へと向かい、老人から貰った薬の小瓶がある抽斗を開けた。一応空瓶でも残しておいたのだが、今そこには——
「——あ、あった……ふぅー、良かったわ。……でも、何かしら、まだ心がうずうずする……」
その時、彼女は、外の方が何やら騒がしいことに気が付いた。窓に近付き、そこから外を眺めてみると、家の周りには沢山の人だかりがあった。野次馬と、そして警官達だ。
「デザイア! 君は完全に包囲されている、直ちに家から出て来なさい! これ以上人を殺めるつもりか!」
デザイアは脱力し、その場に頽れてしまった。そう、また自分の言葉が現実となってしまったのだ。死んでと言って夫は死に、そして次は殺してやると言ってしまった。つまり現実では今、あの老鼠を自らの手で殺したことになっている。
彼女は、床で体育座りになり、膝を抱えてぎゅっと胸に寄せると、そこに顔をうずめた。
「もういや、こんな世界……全部、無くなってしまえばいいんだわ」
ふと気が付くと、彼女は息苦しかった。発作的に呼吸しようとするが、まるで気道が塞がっているかのように、喉に空気が全然入らなかった。
(ど、どういうこと!?)
パニックになりながら彼女は、ハッと頭を持ち上げた——するとそこには、なんと星が煌めく宇宙が広がっていたのだ。加えて、体には違和感が走っており、自身の体を見てみると、なんと膨れているではないか!
そう、宇宙での気圧は〇。しかし体内には、地球からの外圧と均衡するための内圧があるので、急激に外圧が無くなった今、体は外へ外へと押し出されているのだ。
あっという間に、体の皮膚は限界まで張り、彼女はその痛みにも悶え始めた。このまま行けば、某スパイ映画のワンシーンの如く、体が破裂してしまう。だが彼女には、それ以上に過酷な状況が待っていた。
なんと、体が限界にまで膨らんでいながらも、爆発はせず、皮膚がゴムのように益々伸びているのだ。どうしてこの苦しみから逃れられないのと、彼女は口をぱくぱくとさせながら思った。
その時、彼女の目の前に、宙に浮いたあの老鼠が現れたのだ。しかも宇宙服などは身に付けておらず、なのに彼女とは違って平然としていた。と思いきや、彼女自身も、先ほどの悶々とした苦しみが嘘のように無くなっていた。
「本来なら、このまま死を迎えるんじゃろうが、それではグロテスクじゃろうし、お主には、このボトムレス・デプスにて、苦しさを幾分か味わって貰わねばならないからの」
淡々と述べる彼に、デザイアは雌豹のような鋭い目付きで相手を睨んだ。その間にも彼女の体は、風船のようにどんどんどんどんと膨れていく。獣毛の密度も減り、猫の毛がまるで徐々に禿げていくかのように、下に隠れていた皮膚が露呈し始める。
「やれやれ、何という“ざま”じゃ。これはどうやら、時間がかかりそうじゃの」そう言って老鼠は、すっと姿を消した。
その途端、デザイアには再び、あの息苦しさと皮膚の突っ張りが襲い始めた。膨張する互いの体の押し合いへし合いに悶絶しながら、彼女はこのだだっ広い宇宙空間の中で、永遠に近い時間、体を膨らまし続けた。
デザイアが薬を飲み、その効果が発揮された時から、もう一つの世界、パラレルワールドが発生していた。時間軸がずれたために起きる、本来の時間軸ではない別の世界だ。しかしそれは、あくまでデザイアを基軸とした話で、他の生き物たちにとっては、この第二世界こそが本当の世界なのだ。
そんな世界で、ある場所場所において、このような一言が交わされていた。
「良かった、あのクレーム女、今日は来てないな」
「あの文句たらたらの糞猫野郎いるだろ? あいつ昨日、コンビニの器物損壊罪で逮捕されたらしいぜ。へっ、いい気味だ」
それ以降、昨日の出来事から、それぞれの場所ではいつもと違った時間が流れ、彼らには少しだけ平和な日常が訪れていた。
戒めの言葉、落ちてはならぬ場所——ボトムレス・デプス
今日もまた、その場所へと一人がいざなわれてしまった
・第二編 終