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著者 :fimDelta

作成日:2007/07/26

完成日:2007/07/27

更新日:2007/07/27

 

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あの頃を思い出す……翼を打ち、空を翔りしあの頃を……

翼を持つ竜として、俺は飛翔という行為を、生活の一つとして行わなければならない。

だが、もしそれがなくなったら……

 

窓ガラスを透かして空を眺め、宅配物を届ける郵便竜を目で追っていた。

もし、あのような竜が空を飛べなくなったら、郵便竜としての職を失い、その後の不摂生で<零落竜>と呼ばれるに違いない。

空飛ぶことを捨てた、堕落した竜を指すこの言葉。何故この”零落”という言葉を使うのか、それは嘲りを含んでいるからに他ならない。

”零落”の”零”、即ちこれはゼロ(Zero)を意味する。このゼロには、数字の”零”、または”無”を表す言葉だが、

一種の軽賤として、”無能”をも意味する。そう……<零落竜>とは、出来て当たり前のことが出来ない無能な竜だと、辱めているのだ。

俺はそんな言葉が嫌いだった。飛べなくても、きっと竜ならではの”何か”があるはずだと、常々そう思っていた。

……だが周りの視線は冷たい。今や飛ぶことを失った俺には、冷ややか視線だけが送られる。

いや、決して誰もがそういう目を受けるわけではない。”普通”なら、問題はないはずだ。

しかし俺の体には、どう足掻いても取り去ることの出来ない、愚弄される証があった。

それこそ、この体全体、特に腹周りを覆い尽くす厚い脂肪だった。

もし何らかの障害によって飛べなくなった竜なら、周りは不憫な視線を送るだろう。

だが俺のように、自分で自分を縛り付けるような奴には、蔑む視線しか送られない。

決して超肥満とは言えなくとも、空を飛べなければそれは同じ……俺は、完全なる<零落竜>というレッテルを貼られてしまったのだ。

今では外出も疎かになり、毎日家から空を眺め、あの頃の自分を思い出しながら、何重にも重ねられた出前の箱の食べ物を貪った。

 

 

 

「おい、早く付いて来ないと、綺麗な黎明の光が拝めなくなるぞ!」

「ちょっと待ってよライラック! 私そんなに早く飛べないわよ!」

「大丈夫、君なら飛べるさ!」

翼を大きく広げ、目指す丘へと速度を速めた。やがて丘へと到着すると、丁度朝日が山間から顔を出していた。

そこから光が溢れ、扇形の光の海を作って辺りを照らし、徐々にその扇を広げていった。最終的に扇は丸となり、八方を光で照らした。

「……俺、この景色が好きなんだ。訓練帰りにここによると、心が安らぐんだ」

「……素敵ね」

暫く二人は翼を畳み、日が昇った後も景色を眺め続けた。

 

 

 

「……あいつに、せめて一言だけでも、連絡を入れておくべきだったな……」

後悔の念を紛らわす為、再び箱の中を漁って、一片のピザを取り出し口の中に放り込んだ。

……あの後すぐ、俺は軽い事故にあった。一時的に空を飛ぶ能力を失った。だがそんなの、普通ならすぐに治るものだった……

だが俺は、厳格な訓練施設に居た身で、様々な我慢に耐えかねて来ていた。それが突如入院となった瞬間、俺の心を大きく緩んだ。

そして俺の体には、”怠け”という恐ろしい存在が溢れ出た。初め、俺もその存在に抵抗を露にしたが、

あまりに大きな生活環境のギャップに、とうとう俺はそれを受け入れてしまった。

施設では、厳しい特訓でも体を維持出来るよう必要な食事量を取っていたが、それは運動をしない者にとっては、明らかに多すぎる量だ。

しかし俺の体は、その量を食べるのが常態だと認識しており、運動をしないにも関わらず、その食事量を減らすことは出来なかった。

おかげで俺は、日に日に体に脂肪を蓄えて行き、やがて腹は大きく付き出て来て、動くのも段々と大仰になっていった。

そして退院する頃には、俺は自重で空を飛べなくなっていた。勿論施設に戻った瞬間、俺は周りから<零落竜>と呼ばれ嘲笑を受けた。

俺は即座に施設を追出され、無職の輩と同じ存在となってしまった。俺はやることもなく、ただ家で過ごし、漫然と過ごした。

外に出るのは、生活に必要な必需品の購入だけで、食事は、初めは買いに行ったり料亭に行くこともあったが、今では出前だけだ。

食事を買う時はまだ良いものの、料亭に行く時に浴びる周りからの衆目は、俺にとって耐え難いものだった。

だから食事は、出前を注文して家で貪るだけとなった。日用品はそうそう買う物ではないので、俺は殆ど家に籠りがちになった。

余計に運動をしなくなった体に加え、俺の膨らむ欲求が、俺を一層超肥満体へと近付けた。

だが俺はもう気にしなくなった。例え<零落竜>という称号を与えられたとしても、それは特別なものだと自分に言い聞かせたのだ。

その瞬間、俺のこの日常に対する一切の煩慮が、完全霧消した。そうなると俺は、自らの自制など捨てざるを得なかった。

自制を無くせば、それに対する不満欲求が増幅する。しかも仕事などの運動によるストレス発散が行われない俺には、不満の出先がない。

不満の門の閂を開ける方法はただ一つ……欲を満たすこと――つまり俺は、必然的に自制を無くさねばならなかったのだ。

そうしなければ俺は、体よりもストレスが肥立ちし、やがてはストレスの自重の方が勝り、それに押し潰されてしまうのだ。

だから俺は、欲の一つ、食欲というものを抑えることが不可能なのだ。だから俺は食う。だから俺は太る。

……だがそれでも、俺は少しでも自分を見失わないよう体重計に乗ったり、姿見を見たりはしていた。

しかし俺の唯一の脱出口を進むためには、このような行為すら俺には許されなかった。

我慢の際に達した俺は、ついに姿身を壊してしまった――因みに体重計はというと、少し前に俺の重みで破壊されていた。

するとどうだろう、俺から不安の痼りが殆ど消え去っているではないか!

未だ残っている澱は、窓の外にいる、もしくは宅配物を届けにくる”普通”の竜達の姿を見ることであったが、これはどうしようもない。

それでも俺の気分は、無の底から這い上がり、ようやく底無しの穴から顔を出したのだ。

俺は一度、最後の見せしめとして、自らの体全体を眺めるだけ眺め回した。

むっちりした腕、床下への視線を大きく妨げる付き出たお腹、常に腕を優しく支えてくれる柔らかな脇腹……

そして肥満体の観覧を終えると、俺は自らが生み出した世界へと入り込んだ。

朝起きて朝食、おやつ。昼には昼食を食べながらテレビを見て、その後におやつ。夕方は晩飯を食べた後、テレビを見ながらおやつ。

そして寝る前に夜食を食べた後、おやつを食べながら就寝――なんと充実した生活なんだと、思わず俺は感極まった。

ぶくぶくに太っていくお腹が俺の視線の中に入っても、その刺激はもはや俺の脳には届かない。今は自分の生んだ世界にいるのだから。

だから毎日自分が最も望むことを何でも出来る。やがて来ている服がはちきれようとも、その刺激も俺の脳には届かない。

その後、俺が現実世界に戻ったのはただ一度。それは最低限の行動だけで済むように、部屋の模様替えと改造をするためだった。

まずダブルベッドから手の届く範囲に、あらゆる日用品を置く。冷蔵庫、テレビ、リモコン、金庫、などなど。

そして宅配物を全てベッドへと持って来るために、玄関からベッドへと繋がるポストを設けた。勿論お金を渡す為に、その逆も作った。

勿論その際は、久々に外出をして、必要な道具類を買い集めて来た。外出時の周りの竜達は、大きく生まれ変わった俺の姿を見て、

更なる賤視をくれたが、僅かに残った俺のパラレルワールドでの残滓が、羞恥心に対するシールド張っていたので、それを撥ね返した。

おかげで俺は、まるで普通の竜であるかのような面持ちで外を出歩けて、非常に助かった思いをした。

そして新しいポストを設置した後、俺はベッドに日夜を過ごす生活へと移行した。

一日中体を動かさずに、ベッドに横たわっているだけで、料理が届き、飲みたいものもすぐに飲める。

唯一体を動かすのは、時折ソファでテレビを見たくなった時だけだった。やはりずっとベッドにいるのは、少々辛いのだ。

 

 

 

あれから何ヶ月経ったのだろう。外に出歩かずに食っちゃ寝する生活は、一日のリズム以外の全ての時間系を壊してしまうようだ。

そういえば、あれから俺はどのくらい太ったのだろう。別に気にはしないのだが、今日は何故か気になった。

そういえば、俺は何をしているのだろう。気付くと片手にはおやつのチョコケーキ一台、もう片手には貪り中の同じくケーキが一台。

意識はしていないが、どうやら俺の手と口は勝手に動いているようだ。一日中同じ動作をしてたからか、これが自然行動となっていた。

だから俺の手や口は、まるで一つの機械のように、食べ物を掴み、それを口の中へと放り込んで飲み込んでいた。

ふと俺は、腹の山の端に微かに見えるソファを、久々に捉えた。

「久々にソファにでも座るかな……」

俺は体をベッドから降ろそうとした……だが、体が動かない!

まさかと思い、俺は二度目の現実世界への帰還を行った。今自分の視野に入っている全てを見定めようとした。

「お、俺……な、何なんだこの体は!?」

驚くのも無理はない。自分の左指が、腕から手の平にかけて大量に付いた脂肪で埋もれているのだ。唯一見えるのが、指の爪だけだった。

指を動かそうとすると、まるで砂に埋もれた体を動かすかのように、微動だにしなかった。爪だけが、許せる範囲で動かせた。

しかしもっと酷いのが、右指の方だった。手の平と手の甲の脂肪の付き方が尋常では無く、指全てを丸飲みにしていたのだ。

おかげで右手は、もはや手では無く肉玉でしかない。正直、一体どうやって食べ物を取っていたのか不思議に思った。

だが驚くのはこれだけではない。仰向けのおかげで、腹の端がダブルベッドから落ちてしまい、しかもそのせいで、

太り始めて以来見れなかった、変わり果てた脚が視線に入って来てしまっていたのだ。

「こ、これ……脚、なのか?」

とりあえず脚の方に神経を送って見る。すると僅かながら、自分が見ている”物”が動き、確りとその物の感覚を味わった。

どうやらこれが本当に脚らしい……だが、そこにあるのは、一本の巨大な肉の棒だった。

もはや間接や足などの出っ張りは無く、完全な一本の肉の棒と化していたのだ。勿論指なんぞ、とてもじゃないが動かせない。

俺は恐くなり、体を揺すって何とかベッドから降りようとした。肉が波打ち、それが俺の行動をさらに難航にさせた。

やがて十分後、俺の体はようやくベッドから足を降ろす体勢へとなった。だが息切れが酷く、その後さらに十分の休憩を取った。

息が完全に落ち着くと、今度は巨大な体を後に大きく倒し、その反動で目の前の棚に手をかけようとした。

「ふん! ……んぐぐぐぅうぅぅーー!!」

全身全霊をかけて、俺は手を伸ばして棚に手をかけようとした。そして何秒間かの格闘の末、棚に手を掛けることに成功。

俺はそのまま、今度は立ち上がりに行動を写した。再び「ふんぐ!」という掛け声と共に、肉棒な足に力を込めた。

これは思いのほかこれは簡単だった。脚が棒と化したことで、地面に接する面積が増えて体の重みが分散し、

さらに腕の力を利用することも出来たからだ。俺はこの調子でと思い、連なる棚に手をかけかけ、歩み始めた。

だがすぐに、再び息切れが始まった。俺はせめて目の前のソファに座ろうと足を速めた。だがソファまで行く途中には、

一切手を掛けるところが無い空間があった。俺は一呼吸置いて、両手を棚から離した。

ずし! という擬音が、この時始めてリアルに感じれた……体全部の重みが、脚に掛かったのだ。

俺はもはや脚を上げることが出来ず、可能な限り素早く摺り足でソファまで歩いた。そしてついに、俺はソファの前に辿り着いた。

直後、俺は全身の力の抜いて、不確定だが確実に竜の域を超えた肉体を、ソファへと叩き落とした。

その瞬間、ソファがどころか、置いてある床までもが潰れそうだったが、頑丈なソファのおかげで、それは大きく撓んだに済んだ。

ようやくソファへと辿り着いたことに、俺は安堵の息を漏らして内心喜んだ。

……だが、俺は間違っていた。ソファはやや背凭れに向かい角度を成している――つまり俺がここに座ったことで、

俺の腹の全重量が全て体にかかり、俺をソファに押さえつけてしまったのだ!

案の定、幾ら体を動かしても揺すっても、完全に俺はソファから起き上がれなくなってしまったのだ。

この時始めて、俺は太ったことを後悔した。あの時ちゃんと自制していればこんなことにはならなかったはず……

そう自分を叱責しているところへ、まるで拍車をかけるかのように、こんな状況で玄関のベルが鳴ったのだ――

「ライラック? あなた、居るんでしょう?」

――よりにもよって、やって来たのが俺の元彼女だなんて!

 

 

 

俺は観念した。こんな姿を彼女に見られても良い。もはや<零落竜>以上のレッテルを貼られても良い。

俺は全てを受け入れて、やって来た元彼女に向かって声を上げた。

「リラ!」

「ライラック? どうしたのその声!?」

「リラ、そのことは後で話す……玄関の鍵が、玄関前の鉢の下に隠してある、それで中に入って来てくれないか?」

「……分かったわ」

彼女が鉢の底を探る音が聞こえた。そして「カチャン」という、玄関の鍵が外れる音が聞こえた。瞬間、俺の行動は最高潮に達した。

玄関の扉が開き、やがてそこから、昔と変わらない嬋妍たる姿が現れた……それは間違いなく、リラそのものだった。

「……う、嘘……ら、ライラック、なの?」

驚きに打ち震える疑問の声が、リラから上がった。

俺は軽く頷いた。言葉が出なかったのだ。

「……ライラック、どうして連絡してくれなかったの?」

「……俺は、お前に太った姿を見せたくなかったんだ……」

「どうして?」

突如、彼女の声に、憤りの感情が混み始めた。

「……お前を、失望させたくはなかった……」

「それで、あなたは黙って、<零落竜>のまま過ごしたの? 私に何の相談も無しに?」

「……」

行き成り彼女から、激しい平手打ちを受けた。

「――! リラ!?」

「……どうして、どうしてよ……どうして私に相談してくれなかったの……?」

リラの目から、次第に涙がぼろぼろと零れ始めた。

「ど、どうしてって……」

「どうして少しも相談してくれなかったのよ!」

「俺の醜く太った姿を見たら、お前は傷付くだろうと思って……」

「そんなこと無いわ! だって私はあなたが好きなのよ!?」

分かっていた。だがこうも唐突に言われると、脳の中で言葉が右往左往してしまった。

暫くして、俺はようやく言葉を見つけ、それを吐き出した。

「……だけど、お前はこんな姿の俺を好きにはなれないだろう?」

「……いいえ……」

「だが、こんな俺と一緒にいれば、お前は<零落竜>の彼女として、冷視されてしまうんだぞ!?」

「そんなの関係ないわ!」

「どうしてだ!?」

「私はその体が好きだからよ!」

一瞬、その意味が理解出来なかった。だが次第に、ことが飲み込めて来た。

俺はそれに対応した名詞を紡ぎ出そうとしたが、思い止まった。

「……なのか……」

「……いいのよ、素直に言って」

「……お前は、まさかデブ専だったのか?」

「そうよ……隠していてごめんなさい……」

「……だけどどうしてだ? 俺は元々痩身の方だったし、何故そんな俺を好きになったんだ?」

「いくら太った竜が好きだからって、そんな竜と結婚するなんて夢の話でしょ? 大体の<零落竜>達は、どうせ女に興味は持たない。

だから結婚しようたって、向こうは認めてくれないし、それに未来のこともあるわ。だから、現実を見据えなきゃいけなかったの」

「じゃあどうして俺を選んだんだ?」

「……あなたと会ってすぐ、あなたはあの丘へと連れて行ってくれたでしょ?」

「ああ」

「私、嬉しかった……あの時初めて、普通の竜でもいいなと思ったの。私を幸せにしてくれる存在であればそれで良いって……」

「……ごめんな……」

「……何を?」

「俺はこんな姿だから、俺はお前を幸せには出来ない」

「いいえ、私はこれで十分幸せよ」

「……だけど、いくら君がこの太った体が好きだとはいえ、動けないんじゃあどうしようもないんじゃないか?」

「大丈夫よ、これからダイエットすればいいわ」

「……君が、面倒を見てくれるのか?」

「当たり前よ。他に誰がいるって言うの?」

「いや……」

俺は言葉は切った。どうやら、リラに何を言っても無駄なようだ。彼女の目には、何にも動じない強大無比さが映っていた。

「……なら決まりね。それじゃあまず、あなたをソファから起き上がらせないとね」

「だけど、お前の力じゃ俺を支え切れないぞ?」

「やらなきゃ分からないじゃない」

そう言ってリラは手を差し出した。俺はその手を握り、脚に力を入れつつ、足りない力をその手で補おうとした。

だが思った通り、彼女は俺を支え切れず、つんのめって俺の腹へと倒れ込んでしまった。

「だ、大丈夫か?」

「うーん……どうやら、まだまだソファから起き上がらすのは無理なようね」

「じゃあどうするんだ?」

「最低限の食事が取れれば死なないわ。暫くはソファで過ごすことね」

「……そうだな」

 

 

 

あれから一ヶ月、それまでの間、幾度となくリラは俺をソファから立ち上がらせようと、必死に努力した。

彼女は、バンドウエイトを俺の手首や足首に巻き付け、腕と脚の筋肉付けを行う運動をさせたのだ。

勿論俺も、無限の胃袋の空腹を抑える努力をした。きっと一人では出来なかっただろうが、彼女がいるおかげで、それは辛くなかった。

だがそんな努力あっても、立ち上がろうとする俺を支え切れず、彼女は毎回俺の腹へと突っ込んでしまう始末だった。

……だけど、そんな彼女の顔は心なしか嬉しそうだった。……やはり彼女のデブ専は本当のようだ。

しかし俺は一つ、悔いに思うことがあった。彼女が太竜好きなら、俺が痩せてしまうと彼女はがっかりするだろう。

俺は彼女を幸せにしたい。だが痩せてしまえば、彼女を本当の幸せとは導けない。

次第に俺は、痩せることに対して罪悪感を覚え始めた。何故こんなにも重く事を考えるのか、それはやはり、彼女が本当に好きだからだ。

「……何を考えてるの?」

「んー? いや、何でもないさ」

「それじゃあ、今日も行くわよ?」

「あぁ」

俺は脚に力を入れた。するとどうだろう、俺の尻がソファから離れたではないか!

彼女がそんな俺の手を握って、細い腕で俺を引っ張り上げた。俺も努力して、何とか体を起こし始めた。

時間はかかった……だが一ヶ月目にして、ようやく俺は自らの足で立ち上がることが出来るようになったのだ!

「や、やったぞ!」

「ライラック、やれば出来るじゃない!」

俺は顔を綻ばせ、次に移動の練習を行った。摺り足だが、着実に歩を進めることが出来た。

ソファの周りを一周して、俺は再びソファへとへたりこんだ。

「ふぅ、ふぅ……」

「はい、水」

「おう……ふぅ、サンキュー」

俺はリラから手渡された二リットルのペットボトルを受け取り、それを一気飲みした。

そして軽く溜め息をついて、空のボトルを彼女に渡した。

「今度は歩く練習ね」

「だな」

「もうちょっと体重を減らせば、きっとちゃんと歩けるようになるわね」

「……あぁ」

「……嬉しくないの?」

「いや、別に? 全然嬉しいよ」

「……そう……」

 

 

 

長かった三ヶ月。ついに俺は、体型は未だデブいが、確りと足を運ぶことが出来るようになった。

その頃には体の脂肪もそれなりに落ち、あの鉛の体が嘘のように思えた。

そしてさらに三ヶ月、俺は家の周りを周回することが可能になった。

毎日リラと一緒に歩き、例え周りから軽蔑の視線を浴びようとも、俺はそうだが、彼女も一切動じず、仲良く楽しそうに歩いた。

やがて、彼女の訪問から一年。俺の体は、その当時に比べてすっかり見違えるほどに変わっていて、歩行も楽になった。

 

「……なあリラ?」

「なぁに?」

「その……ありがとう。お前がいなかったら、きっと俺はあのまま野垂れ死にしていただろう」

「いいのよ、だって私はあなたが好きなんだもん」

「本当に、どうやってこの恩を返したらいいのか……」

「……別にいいのよ、気にしないで」

「だけど、お前は俺の、あの太った体が好きだったんだろう?」

「……本当はね。だけどそれじゃあ、あなたが可哀想だもん。いくら私が幸せになっても、あなたが幸せじゃなきゃ私は幸せじゃないわ」

「……そうか……」

暫く静寂が流れた後、俺は言葉を切り出した。

「俺は、借りをお前に返す」

「……何をくれるの?」

「俺の体さ」

「――! な、何を言ってるの!? 私、そんな嫌らしい趣味なんて無いわよ!?」

「違うって! 俺の太った体をあげるってことだよ!」

「……ど、どういうこと?」

「お前、太った体が好きなんだろ?」

「え、えぇ……」

「なら俺が太ってやるよ」

「な、何を言ってるの!? そしたらまた動けなくなっちゃうじゃない!」

「大丈夫さ、こうやって毎日の運動を鍛練に行えば、太っていても動ける」

「それはそうだけど……」

「確かに俺は太り過ぎで動けなくなった。だけどあれは俺の怠慢のせいでもある。毎日軽い運動でもしてれば、あんな風にはならない」

「……だけど……」

「お前は、俺を幸せにしてくれた。だが俺には、もうお前を幸せにすることは出来ない。仮に動けるようになっても、

もう俺は空を飛べない……だからお前に、あの風光明媚な景色を、もう見せてはやれないんだ」

リラは心の中で葛藤していた。恐らく、本性の自分と戦っているのだろう。俺は彼女を悩ませないよう、言葉を続けた。

「だから俺には、お前を幸せにするすべが一つしかない。それは俺が太って、お前のデブ専本能を満たしてやることだけだ」

「だ、だけど、だけど……あなたは、それでいいの? 太ってたら、色々とあなたは大変じゃない。周りの視線もあるし……」

「この状態でも変わらないって。それに俺はもう太っていようがいまいが関係ない。動ければそれでいいと思ってる」

「……」

リラは無言のままだった。彼女はまだ心につっかえを残しているようだった。

俺はそんな彼女を素直にさせるため、こう言った。

「腹減ったなぁ~!」

「……え?」

「腹が減った。俺、あれ以来食べることが好きになっちゃって、どうしてもやめられないんだよ」

「え、えぇ……」

「なあ、何か買って来てくれよ。もう俺は動けるようになったんだし、好きな物を食べてもいいだろう?」

「そ、そうね……」

「それじゃあ買い物宜しく! 俺はその間、ちゃんと運動してるからさ」

そう言って、部屋に置かれたダンベルを持ち、筋力トレーニングを行った。

「ほら早く! 早くしないと俺、餓死して死んじゃうよー」

「……ふふ」

あまり阿呆な俺の姿を見て、リラは笑みを零した。

そして彼女は、玄関を出て買い物へと向かって行った。

「あ! 俺の好きなチョコレートケーキ忘れなるなよ!」

窓の向こうで、リラが了解の合図を送った。

 

 

 

それ以来、俺は太ることを欠かさなかった。勿論前のように動けなくなることはごめんなので、確りと運動も行った。

毎日腕立てとスクワットを百回。さらに手首と足首にバンドウエイトを巻き、重り入りリュックを背負って一連の行動も運動に変えた。

おかげで俺の体は、前ほどでは無いが、かなりでっぷりとした体形になった。

確かに腕や足は筋肉で膨らんではいるが、腹だけはだらしくなく、ドンと付き出ていた。

リラはそのお腹を、毎日のキス代わりにとハグした。俺はその彼女の頭を、優しく撫でた。

元々は俺も彼女を抱き締めていたのだが、腹に手が回らなくなった今、仕方なくこうやって彼女と触れ合うのだ。

そしてその後、俺は彼女と朝食を取り、日課となった朝の散歩に出かけた。

周りからは、あの軽蔑の眼差しはなかった。何故なら俺は、空を飛べない代わり、”力”というものを手にしたからだ。

でっぷりとした体の重さは、相当筋肉に堪えるらしく、おかげで毎日のトレーニングが相当な運動量となっているのだ。

そして俺は今、その筋力を生かして港の沖中氏をしている。どうやらこれが旨かったらしく、俺はすぐに頭となった。

意外なことに、ここらでは俺のような筋骨隆々――勿論腹のことは除いてだ――な竜は、殆どいないのだ。

周りは空を飛べる竜達ばかり、即ちそれは体が軽いことを意味し、連鎖的に筋肉量も限定されてしまうのだ。

だから、空を飛べない代わりに筋肉を付けた俺は、ここらで一番の力持ちとなっているのだ。

おかげで俺には、とある渾名が付いた。<巨漢のライラック>、巷ではそう呼ばれているのだ。

力持ちもそうだが、俺のこの目立つ巨大な腹が、どうやら大きく名前に影響してしまったようだ。

だがそれは、昔のような差別的なものは一切なく、俺はその名を快く受け入れた。

やがて散歩を終えた俺は、港へと向かった仕事をしに向かった。そしてその際、彼女の日課となった、俺の腹へのハグを行った。

 

 

 

まだ日が昇っていない、休日の早い朝。突如リラが、俺を起こした。

「ねえ、ライラック? ちょっと来てくれない?」

「なんだい?」

「ちょっとね」

言葉を濁し、リラは家へと出た。俺は訳が分からず、渋々その後を付いていった。

やがて彼女は、俺の仕事場である港とは別の港湾へとやって来た。

その港の倉庫が立ち並ぶ場所の前にある、腰丈ほどのコンクリートの段差に、彼女は腰掛けた。俺も同様にして、彼女の横に座り込んだ。

「一体何があるっていうんだ?」

「いいから黙って、向こうを見てて」

リラが指し示す方向には、広大な大海原と地平線しか見えなかった。

俺は彼女に質問をしようしたが、その口を彼女は指一本で差し押さえた。

俺は訳が分からないという風に首を傾げ、そして彼女が指す地平線をじっと眺めた。

それから十分後、地平線から、一筋の光が現れた。次第にそれは大きくなり、やがて巨大な太陽が顔を出し始めた。

すると海が、まるでダイヤモンドでも鏤めているかのように、キラキラと輝き出した。

あまりに美しい光景に、俺は息を飲んだ。昔は色んな景色を見ていたが、海の壮麗な景色を見るのは初めてだった。

暫くして、彼女が言った。

「あなたは昔、私に美しい景色を見せられないと言ってたでしょう?」

「……あぁ、そうだな。確かに言った」

「でもこれなら、あなたはいつでも私に、綺麗な景色を見せられるわ」

「もしかしてお前は、ずっとこの場所を探していたのか?」

「まあね。あなたは景色を眺めるのが好きだった。だけどそれは大概山の頂上とか丘とか、とにかく高いところが殆ど。

確かにそういったところの景色は綺麗だけど、それじゃああなたは一生見ることは出来ないわ」

「……だけどこれなら、俺はいつでも、この綺麗な黎明を見ることが出来る……」

「そう。これでまた一つ、あなたの心を埋めることが出来たわね」

「ありがとう、リラ。本当、なんて言ったらいいのか……」

「いいのよ、ライラック。私、あなたのことが好きなんだから」

リラの言った好きという言葉。俺はこの言葉の意味を知っている。

確かにリラはデブ専だし、俺のこの太った体が好きだ。しかし彼女は、俺が太る前から好きであり、俺自身のことも好きなのだ。

つまり彼女の”好き”という言葉は、俺の全てを好きだと言っているのだ。

……そう考えると、俺はリラにとって、この世で最も彼女を幸せに出来る竜に違いない。少々不遜な考えだが、俺は気にしない。

「俺もお前のことが好きだよ、リラ」

「ふふ、ありがとう」

「さてと……それじゃあ、どうやってこのお返しをしようかなぁ?」

俺はちらりと、リラの顔を見つめた。

彼女は、悪戯そうな表情を浮かべ、こう言った。

「それは勿論、あなたの体で返してもらうわ」

そう言ってリラが、朝日が見ている中、横から俺のでっぷりと肥えた腹の中に顔をうずめた。

「……私って、変な竜よね?」

「……いや、お前は、俺にとって最高の竜だよ」

俺は顔が、いや、全身が火照る感覚を味わったが、すぐにそんな感覚を捨て、俺は彼女の頭に、そっと太い手を乗せた。

 

 

 

太陽が、海の彼方から光を発して、ライラックとリラを照らした。

その光は、彼らの影を生み、そしてそれは徐々に彼らの後方へと伸びていった。

やがてその影は、背後にある倉庫へと到達し、壁を伝って屋根をも侵食し始めた。

彼ら二人の愛情は、彼の体のように大きく、そして彼らの影のように長いものへとなっていった。

 

 

 

 

 

          FIN


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