著者 :fim-Delta
作成日 :2007/12/17
第一完成日:2007/12/20
第ニ完成日:2007/12/26
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ ここで登場する生命体は、全て二足歩行しているものとする。
※ フィン = ドルフィン → 海豚
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
*****
「ちょっと、君。私の部屋に来てもらってもいいかな?」
部長が突如後ろから声をかけて来たので、私は少々ビクついた。
「え……あ、はい」
そう答えると、部長は私を部屋へと案内した。そして私を、彼のデスクと真向かいに位置する席に座らせた。それから暫く、部長は思い悩んだ面持ちで沈黙していた。が、やがてとうとう口を開いた。
「……実は、非常にこのことは言い難いことなのだが……」
「はい……」
私は生唾をゴクリと飲んで、手をきつく握った。
「残念だが……君を、営業部へと転部させることにした」
「――そ、そんな!」
営業部という言葉に、私は酷く動揺した。営業部と言えば、饒舌で積極性が無ければまずやってはいけない。しかも最近、過剰な営業方法が問題となっており、住民達からはその存在が避けられがちだ。それに私は根本的に、口は巧く無いし積極的な行動も出来ない……
「車輌部は今人手が足らず、正直君を手放すのは惜しいところなのだが――」
「じゃ、じゃあどうしてですか!?」
「君は、自分の体が”大きく”変わったことに気付いてはいないのかね?」
「……」
私は項垂れた。それは……それは正しかったからだ。私は現在、ここに入社し、この車輌部に配属されてからの時と比べると、凡そ体重がニ倍にも増えていた。元々痩せていた体はでっぷりとした太鼓腹と垂れる脂肪に覆われ、その体のせいで私は、運搬用のトラックに乗車する際に多大な労力を要する破目になっていたのだ。……そしてつい先日、私はとうとう自力で乗車することが出来なくなり、他の同僚達に尻を持ち上げてもらわなければならなくなってしまったのだ。なぜこうなってしまったのか――それは、車輌部の過酷な労働状況によるストレスに他ならない。そのストレスを鎮静化するべく、私は兎に角沢山の食べ物を食べた。何かを食べている時、心が解放されて安らぐことを知ったからだ。そんな、過酷な状況下にあるこの車輌部にいても、私は営業部にだけは行きたくなかった。
「その君の太った体では、もはや一人ではトラックに乗り込めないのだろう? そんな奴に、車輌部は相応しくない」
「それじゃあ今から痩せます! だからせめて、営業部にだけは――」
「これは上からの命令でもあるんだ。もしこの部署で働きたいのであれば、営業部の方で痩せたまえ」
*****
「――そんなこと……無理に決まってるだろ!」
私は窓際の席で、三つ目の弁当を我武者羅に頬張った。案の定この営業部に来てからは、体型による軽蔑の眼差しと、営業でのストレスによって更に太ってしまった。体重は、この部署に来てからの二倍程――即ち、この会社に入社してからおよそ四倍にもなってしまったのだ。椅子は二つ使わないと拉げてしまうし、飯は正直、弁当三つでも物足りない気分だ。動く動作も一つ一つが辛く、業務などの形而上的なものだけでなく、自分自身の身も重く体に圧し掛かっていた。
「おいおい、また太ったんじゃねえのか? フィンなのにそんな体で、本当に動けるのかよ?」
同僚の嘲りが聞こえ、それと同時に室内で爆笑が湧き起こった。私は躍起になって四つ目の弁当を頬張り始めた。
昼食が済み、私は肩掛け鞄を携えて再び営業へと向かった。嬉しいことに、行く場所は常に区内に限られている。そういった配慮をしてくれるということは、少なからず上の方も私のことを理解しているということだ。……だが、それでも今のこの体では、とても辛い物であった。
「あ、タクシー!」
手を振ってタクシーを止めようとする私。スーツ姿なので見た目は分からないが、内側では体中のあらゆる肉が罷り揺れていた。
「お客さん、何処まで?」
私は体を大きく揺らしてタクシーに乗り込みながら言った。
「グレーム駅までお願いします――んしょっと!」
「へ? それならあそこの駅から電車で一本ですよ? あの電車は本数も多いし、態々こんな高いタクシーに乗らなくても……」
「ふぅ……あそこの下り電車は、殆ど座れないんで」
「あ、あぁ、なるほどね」
理解したタクシーの運転手は、ギアを入れてアクセルを踏んだ。
「お客さん。随分と体が大きいんですね」
「いや、ただ太ってるだけですよ」
「そうかい? でも相撲取りの方もそうじゃないんですかい?」
「あの方達はちゃんと運動もしてるし、筋肉だってその分付いてますよ。それに比べて私なんて、ホームに行くまででも一苦労ですから……」
「……なるほど。だから態々タクシーを――そりゃあ交通費が掛かって大変じゃないんですかい?」
「いえ。交通費は会社の方で支給してくれてますんで、一応助かってます。けど食費などが嵩んでしまって、やっぱり大変ですね」
「ははは! そりゃあそうだろう。お客さんは勿論大食いでしょうからね」
「わ、笑い事じゃないですよ! 食べるたんびに太って、それでまた食費も増えて――はぁ、何でこうなったんだろうなぁ……」
私は俯いて、普通の人なら床を見るところを、私は自分の突き出た腹を見つめた。
「……お客さんは、今の人生に満足はしていないんですかい?」
「満足も何も、既に動くことすら満足してないじゃないですか!」
私が唐突にがなったので、運転手は取り乱し、一瞬ハンドル操作を誤った。
「……すいません。行き成り怒鳴ってしまって……」
「まあこっちがいけないんだ。悪いね」
「いえ……」
会話が途切れ、エンジン音と、左右ですれ違う車の音だけが聞こえた。それから暫くは互いに何も喋らなかったが、やがて運転手の方から、話の続きを切り出した。
「お客さんは、自分が幸せな時ってないんですかい?」
「……食べてる時、ぐらいかな……」
「じゃあ、まだいいじゃないですか」
「どういう、ことですか?」
「世界には色んな人がいる。中には、一つも幸せを感じられない不幸な人達もいるんだ」
タクシーが信号の前で止まり、運転手は置いておいたペットボトルを手に取って蓋を外し、その中のお茶を一口飲んだ。
「たった一つでも、自分が幸せに感じれる人生があるのなら、それで満足じゃないのかな?」
「……」
私は黙り込んだ。時折ニュースで流れる、日夜紛争で脅かされている人達を思い出し、不意に自分を不甲斐無く感じたのだ。……その時、信号が青になり、タクシーは再び走り始めた。そしてそれからは、二人は一言も喋らず、とうとう目的地に辿り着いてしまった。
着いた先は、都会から離れた駅で、電車が通らない時は本当に閑静な住宅街であった。
「着きましたよ」
「あ、ありがとうございます」
「運賃は――二千百円だな」
「はい。あと領収書をお願いします」
私はそう言いながら、肩掛け鞄から財布を取り出し、運転手に運賃を支払った。そして領収書とお釣りを受け取った後、私は体を大きく外側へと揺らし、タクシーの外へと抜け出た。そして多少乱れた呼吸を整えて、私は住宅街へと歩き始めた。
「お客さん」
タクシーの運転手が声をかけて来た。私は運転手の方を振り向いたが、その動作一つでも、僅かながらに疲労を覚えた。
「お客さんはどうやら、自分のことしか頭に考えていないようだ。それじゃあ毛頭悩みは解決しないぞ?」
「……どういうことですか?」
「自分が太ってしまったからこうだ。だからあーなってこうだ。自分が作り上げてしまった体に自分が悩んでいる。そうじゃないのかね?」
「そ、それは……」
「一つ言っておこう。君とは違い、他人によって自らの体を変えられてしまい、それで悩んでいる人達は大勢いる。君の悩みは、単なる我が儘に過ぎないんだよ」
「……」
「どうやら、君の視野は如何せん狭いようだね。いいかい? 自分が作り上げてしまった体には一切悩むな。まず、確りとそれを受け入れるんだ。そしてそれから、自分が存在している意味や価値を見出すんだ。……最も最低な奴というのはな、自らが作り出しものを避けることだ。言うなれば、自分が産んだ子を捨てるように。また言うなれば、自らの責任を他人に押し付けるような奴らのことだ」
「……ごめんなさい……」
私は泣き出しそうだった。全てが、納得出来る正当な意見だったからだ。
「分かったのなら、行きなさい。それを理解すれば、君の人生はきっと明るいものになるだろう」
「ありがとう、ございます」
その言葉を締めとして、運転手はタクシーを走らせて去って行った。私は暫くその場に立ち尽くしていたが、ふと自分の仕事を思い出し、再び住宅街へと歩き始めた。
それから三十分、私は民家を訪れる度に売り込みに失敗し、この次で一段落しようと息も絶え絶えに辿り着いたのは、周りと比べると少々古惚けて見える、一件の平屋だった。私はその家の玄関に向かい、そこで数分呼吸を整えた後、そこにあったベルを鳴らした。
「はーい?」
中から女性の声が聞こえて来た。それから玄関の扉が開き、同い年ぐらいの、長いスカートを穿いた雌の蜥蜴が現れた。
「あのぉ、マライズ会社の者なんですが、実は私達、こういった仕事をしてまして――」
そう言って私は、肩掛け鞄からパンフレットを取り出そうとした。だがそれを、彼女が言葉で遮った。
「あ、私はそういうの興味無いんで」
「え? それじゃあパンフレットだけでもどうです?」
私は額から吹き出る汗を垂らしながら、聞いた。
「申し訳無いんですけど、それも要りませんので……」
「そ、そうですか……」
私は踵を返し、家を離れようとした。だがその時、雌の蜥蜴が尋ねて来た。
「あ、あの……随分とお疲れのようですが、宜しかったら、家で休んで行きませんか?」
「えっ?」
振り向き様に、私は答えた。
「で、でも……私はこんなに太っていますし、大丈夫でしょうか?」
「別に、太っていても関係はないと思いますよ? 私は全然問題ないんで、宜しかったらどうぞ」
そう言って彼女は、私を家の中へと招き入れた。私は玄関の僅かな段差を、圧し掛かる腹と共に脚を持ち上げて上った。それから彼女は、私をリビングへと案内した。
「ささ、こちらのソファへどうぞ」
「ありがとうございます」
そう言って私は、ソファにドシンと座りこんだ。するとソファが大きく撓んだので、一瞬ひやっとした。
「ケーキは如何かしら?」
「よ、喜んで!」
ケーキという”甘い”言葉につい浮かれてしまった私。「すいません……」と、初対面の彼女に私は謝った。
「ふふ、良いのよ。それじゃあちょっと待っててね」
そう言ってから数分後、彼女が持って来たのは、甘い香りがする紅茶と、カットされたショートケーキだった。彼女が「召し上がれ」と言ったので、私はそれを確りと堪能した。
「ふぅ、ご馳走様です。いやぁ、やっぱりケーキってのは良いですね。太った私ですから尚更ですよ」
その言葉を聞いて、雌の蜥蜴は含み笑いをした。その笑顔は、何とも言えない可愛らしさを湛えていて、つられて私の顔もつい綻んでしまった。気を良くした私は、珍しいことに自分から彼女に声をかけた。
「ご主人は、仕事ですか?」
すると、唐突に彼女の顔から笑みが消え、そして静かに、こう答えた。
「……いいえ。主人はもう、亡くなってしまったんですよ」
私は後悔した。初めてこんなにも気持ちの良い待遇を受けたのに、来て早々相手を悲愁にさせてしまった……
「ご、ごめんなさい……そんなことを言わせるつもりじゃなかったんです」
「分かってますよ。ご心配なさらずに」
そう言いながらも、彼女の表情は依然として悲しそうだった。――とその時、隣の部屋から小さな雌の蜥蜴が現れ、そして「わぁ! おっきなフィンだ!」と言いながら、私の突き出たお腹に突如抱き付いた。
「あっ、アンス、止めなさい! ごめんなさい、この子ったら……」
そう言って彼女は、自分の娘を私から離そうとした。だがその娘の顔を見てみると、とても幸せそうな表情をしており、私はつい当惑してしまった。どうしようかと考えていたが、その内娘は母親に抱き抱えられてしまった。
「アンス! お客さんに行き成り抱き付いちゃ駄目でしょ!」
「だ、だってぇ……」
蜥蜴の娘は、しょげてこうべを垂れた。そんな悲しそうな彼女を見て思い立った私は、母親にこう言った。
「あ、あの……別に、私は構いませんよ?」
「えっ?」
母親は驚きの表情で私を見つめた。
「じゃあ、抱き付いてもいい?」
娘がそう尋ねて来たので、私は笑みを浮かべて「勿論」と答えた。するとその娘の表情が、悲愁から嬉々たるものへと変わり、そして彼女は真っ先に私の腹へと飛び込んで、ギュッと腹肉を抱き寄せた。
「ごめんなさいね。態々こんなことを……」
「いえいえ、別に良いんですよ。今まで私はこういった経験が一度も無くて……正直、嬉しいです」
その言葉通り、私の顔は知らず知らず笑みに溢れ、自然と頬筋が持ち上がっていた。それから暫く、蜥蜴の娘は私の腹とじゃれ合い続け、三十分程して漸く私から離れた。
「フィンのお兄ちゃん! おっきなお腹、気持ち良いね!」
真顔で、しかも笑み三宝を湛えた顔でそう言われたため、私は僅有絶無の最大限の笑顔を、自然と相浮かべた。そして彼女は、再び隣の部屋へと戻って行ってしまった。
「随分と、変わってらっしゃいますね。こんな私の太った体が好きだなんて」
「……娘は、父親が大好きでしたから……」
「……どういうことですか?」
私がそう言うと、蜥蜴の母は娘とは別の隣室へと入って行き、それからちょっとして、彼女は一枚の写真を手に持って戻って来た。
「これが、私の夫です」
差し出された写真を手に取り、私はそれを眺めた。するとそこには、見事にでっぷりと肥えた雄の蜥蜴が写っていた。顔は横長の楕円で二重顎、手足はむっちりとしており、お腹は大きく突き出ていて、重さに耐え切れず私のように垂れ下がっていた。さらに彼は身長が低めのせいか、見た目が本当に真ん丸く見えた。
「昔っから娘は、父親が大好きで、いっつも父の腹を玩んでました。父もそのことは気にせず、逆にそれを楽しんでいて、いつも優しい表情で娘と接していました。……だけど、ある日……」
「……ある日?」
「……飛行機の墜落事故がありましてね。乗客は全員死亡――その中に、私の夫もいたんです」
私は何と声をかけてやればいいのか分からず、ただ俯いた。
「それからが、大変でした。私は仕事に齷齪しながら子育てをして行かなければならず、娘には殆ど接してやれませんでした」
「……もしかして、そのせいで娘はあんなこと?」
「そうなのかも知れません。それと、父親のことを思い出してもいるのでしょう」
そう言って彼女は、私の向かい側のソファに嫋やかに座った。すると、彼女のスカートの裾がやや持ち上がり、脛の辺りがちらりと見えた。
「あれ?」
「……どうかしましたか?」
「その脚……」
「ああ、これね」
そう言って蜥蜴の母は、スカートの裾を持ち上げ、自分の脛を見せた。
「これは、仕事で怪我をしたのよ」
「――! でもこれって、義足ですよね? 相当な大怪我ですよ!」
「私は色んな仕事を転々としていましたからね。中には危険が伴うものもあったんですよ。それである日、上司にこっ酷く怒られてどつかれてしまい、運悪くその先に切断用の機械があって……」
「そ、そんな……酷過ぎる!」
「それだけじゃないわ。向こうは一切治療費を出さないで、私を首にしたの――本当、酷い話よね」
私は大きなショックを受けた。彼女が、こんなにも酷い仕打ちを受けていたなんて……
「それから、大変だったんじゃないでしょうか? 義足とか付けてると、仕事上色々支障が出るでしょうし」
「そうねぇ、確かにそうだわ。それに他人から変な目で見られることもあるしね」
「だ、大丈夫だったんですか? 結構精神的にも辛かったのでは?」
「そうかも知れないけど、そんなこと気にしてたってどうにもならないでしょう?」
私は再度ショックを受けた。彼女とは違い、私のこの体は自分自身が作り上げたものなのに、それをウジウジと今の今まで嫌忌に思っていた。……何て、私は愚かだったんだ。
「それに何よりも……」
蜥蜴の母は、娘が居る部屋に視線を向けた。
「あの子のためですもの。それにあの子は、頑張った私にいつも笑顔を送ってくださるの。その時は、本当に幸せな気分になれて、また一日頑張ろうって気になるの」
私はその言葉を聞いて、あのタクシーの運転手が言っていたことを反芻して見た。それから、私は彼女に聞いて見た。
「……あなたは、今の人生に満足してますか?」
「え? それは……そうね、満足してるわ」
「どうしてです? あなたはシングルマザーとして多大な苦難を強いられているのに?」
「確かにそうかも知れない――けど、私には愛撫出来る娘がいるから」
「でも……それでも、辛い時は自分の人生から逃れたくはならないんですか?」
「そう思う時もあるわ。けど私には、この人生を生きる”意味”があるから」
「意味?」
「そうよ。さっきも言ったでしょう? 私には、あの子のために頑張らなきゃいけないのよ。例えこんな体であろうとね」
刹那、私の双眸に映る全てが、大きく変わった。偏見でしかものを見ていなかったのが、今では良く分かる。あの運転手が言った「視野が狭い」という言葉の意味も、今では身にも沁みて感じることが出来た。
「……私は、愚かでした……」
「ど、どうしたんですか?」
突然自虐した私を見て、蜥蜴の母は戸惑った。
「私はいつも、自分の体を嫌に思ってばかりいました。毎日怨嗟に暮れて……自分の体は、自分が作り出したものなのにも関わらず。それで常に自分は不幸だの何だのと、何かと託けて甘えていました。だけどあなたは、他人によってその身を変えられようとも、こうやって前向きに生きている。人生に満足している。……私は、自分が今まで何て愚かだったのかを、漸く悟りました」
「……それじゃあ、今は?」
「もう自分の体を恨んだりはしません。だってこの体は、自分で作り上げた太った体ですからね。自分で作ったものを嫌味に思うなんて、我が儘同然。奥さんのように、他人に自らの体を変えられても前向きに生きる人に対して、失礼ですものね。それに……あなたの娘さんが、私のこの体を気に入ってくれた時、分かったんです。少なからずこの体を好んでくれる人がいることを。これからは、この体と共に、頑張って生きたいと思います」
「まさか、ここでそんな風に心変わりが出来たなんて……本当に良かったわ」
「はい。あなたと娘さんのおかげです。本当に、ありがとうございます!」
「いえいえ。こちらは何もしてませんよ。アンスはただあなたの体が純粋に好きだっただけですし、私は過去のことを話しただけですから」
「それですよ。娘さんの純粋な心が無ければ、あなたの過去を知らなければ、私はこれからも自身を不幸だと思い続けていたでしょう」
「なるほどね。……でも、これからどうするの? 具体的なことは何か決まったの?」
「い、いえ……ただ、今の仕事を頑張って続けようと思います。けど、いつも社内や色んな所でからかわれたりするし、正直それに耐えられるか自信が……」
「……それじゃあ、いつでも良いからここを訪ねてよ」
「え?」
「あなたと娘が接している時、あなたはとても幸せそうだったわ。娘もあなたのことが気に入ったみたいだし、来てくれると正直助かるの。あなたが良ければだけど、どう?」
「も、勿論で――うわぁ!」
私は嬉しさ余ってつい立ち上がろうしたのだが、お腹が突っ掛かって再びソファの背に倒れ掛かってしまった。
「ふふ……あなたって、夫そっくりだわ」
「えっ、そうですか?」
私は笑いながら答えた。
「私の夫も、時々お腹が突っ掛かって上手く起き上がれない時があったの。だから、あなたを見てると夫を思い出すわ」
その言葉を聞いて、私の頭にある考えが過った。
「……もし……」
「何?」
「……いえ、何でもないです」
そう言って私は、片手をソファの肘掛けに乗せ、もう片方の手を横から腹の下にくぐらせ、膝の上に乗せた。そして両手両足に力を込め、勢い良く立ち上がった。
「よっ――とふぅー……それじゃあ、本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。これからも、宜しくお願いしますね」
「勿論ですとも」
そう言って私は、心と体中の肉を”おどらせ”ながら、家を後にした。
*****
「なあ、知ってるか? あのフィン、今度新しく建つ子会社の社長に任命されたんだってさ」
「えぇ!? あの超肥満体だろ? どうやったらそうなるんだよ」
「……お前、知らないのか? あいつ最近、業績が凄く良いんだぜ?」
「へぇー。どのくらいだ?」
「ニ百件はもう突破してる」
「う――嘘だろ!? 俺達だってまだその四分の一ぐらいしか……」
「何だか分からないけど、あいつ、最近性格明るくなったじゃん?」
「あ、あぁ……」
「話によると、自分がデブであることを明言して、それをネタにしてるらしいぜ?」
「そ、そんなんでいいのかよ?」
「さぁ? だけどまあ、俺達には真似の出来ないことだな」
その時同僚が、自分の腹肉を摘んだ。そしてこう言った。
「営業ってストレスが溜まるから、最近俺、食い過ぎで太って来たんだよなぁ」
「……まさか、あいつの真似をしようってんじゃないだろうな?」
「い、いや、それはさすがに……。だけどそんなんで業績が上がるなら、俺もしたいなぁなんて」
「何でそこまでする必要があるんだよ?」
「お前だって分かるだろ、営業の厳しさ。心身が弱い奴らはすぐにぶっ倒れちまう厳酷さは、正直ギリギリで耐えるのが精一杯だ」
「ま、まあ確かにそうだが……」
「あいつ、いっつも自分がしたいようにしてるじゃんかよ。食べたい物を食べて、結果太る。だが太った体は、奴にとって万々歳だ」
「……お前の言う通り、確かにあいつのやり方は、羨ましいと言えばそうかも知れないな」
「まあでも、やっぱり太るのはご免だな」
「そうだな。その代わり何か、良い業績の上げ方があればいいんだけどな」
「それで思ったんだけどさ、あいつを見てると滑稽な見た目が受けてるように思わないか? だから例えばピエロとかに扮装して――」
「バカ」
*****
社長室で社長は、天窓のガラスを透かして空を仰ぎ見て、脇に置いてあるドーナッツを頬張りながら、他会社からの契約内容について勘考していた。するとふと、社長はあることを思い出した。タクシーの運転手――社長の人生を大きく変えた、見た目は普通の中年の雄鼠。そんな彼が言った吝か無い言葉は、いみじくも当時の社長そのものを言い当てていた。そしてその言葉と助言のおかげで、社長は今の明るい人生を過ごすことが出来るようになったのだ。社長は空を浮遊する雲に、その中年の鼠の顔を当て嵌め、それに向かって心からの感謝の言葉を囁いた。
「ありがとう……」
それから社長は、契約内容について再び思案し、同時におやつタイムも再開した。
終